頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

秋晴れ。帰りに見た雲の流れが早かった。いろいろな形の雲がどんどん流れていく。ひとつに目を止めて連想ゲームをする。砂時計が、火にくべられて燃え踊る人影、メビウスの輪、ドラゴンが絡みついた剣のキーホルダーと変化する。あれはなにかを手繰り寄せる手、なにかを乞う手、柔らかいさざなみ、山の峰。リスカ痕、ハンバーグの焦げ目、飛んでいく無数の戦闘機。どうして紙に広がるインクの染みに、インクの染み以上のなにかを連想するんだろうな。カギ十字はただのカギ十字。座っている女の子はただの座っている女の子。女の乳房はただの女の乳房。それ以上でもそれ以下でもないのに。でもそうはいかないらしい。シンボル。アイコン。記号。言葉。意味。意味づけされた幻想の世界。人間と人間の集団の作る想像の世界はグロテスク。グロくてキモくてうるさい。作為と見栄と一方的自己満足でいっぱい。でもべつにそれだけだ。それが平常運転。グロくてキモくてうるさいのが平常運転。僕もそう。今もその中で泳いでいる。でなきゃ言葉を操れない。意味を見出すこと、意味を誰かと共有すること、そうやって作られる偶像、そういうものに思いを馳せる。人は人の中に偶像を見出す。偶像。幻と理想。幻滅って言葉があるけど、あれはかなり的を射てると思う。幻滅したってネガティブなニュアンスで用いられるけど、僕はいいじゃんと思う。まぼろしが減る。どんどん、減っていけばいい。いろんなものにがっかりしていけばいい。それで夢から醒める。夢の中で、偶像の人形劇をするのは一人遊びだ。そこに他者はいない。幻滅があって、がっかりしてはじめて他者と相対できる。理想のお人形じゃないからといって、存在は消えてなくなったりしない。理想のお人形じゃない他者とどう相対するんだ、それが問題なんじゃないか。だらだら、そういうことを考えながら歩く。この間まで熱心に読んでいた本の内容を、漠然と反芻する。袖にも引用されていた本文中の一節を気に入っている。『誰も戦争を治療することはできないし、それを言うなら、虐待やレイプや性的虐待をはじめ、他のどのような恐ろしい出来事であれ治療することもできない。起こってしまったことをなかったことにはできない。』しびれるね。こう続く。『だが、対処できるものはある。』それは、トラウマが体と心と魂に残した痕跡だ。その痕跡とは、不安や抑うつ感とも呼べる、胸が押し潰されるような感覚や、自分を制御できなくなるのではないかという恐れ、危険や拒絶に対して常に身構えてしまうこと、自己嫌悪、悪夢とフラッシュバック、目の前の課題に取り組み続けることも、今している作業に打ち込むこともできないほどの混乱、他者にすっかり心を開けないこと、といったものだ。…… こういう一節もある。『人は秘密を守って情報を伏せておくかぎり、基本的に自分自身と闘っている状態にある。』自分の核心にある感情を隠すには厖大なエネルギーが必要なので、やりがいのある目標を追い求めるためのモチベーションが奪われ、辟易として、機能停止に陥ったままになる。その間もストレスホルモンは体にあふれ続け、頭痛や筋肉痛になったり、便通や性機能に問題を生じたりする。さらに、不合理な行動をとるようになり、 それによって自分もばつの悪い思いをし、周囲の人を傷つけかねない。こうした反応の源泉を明らかにして初めて、自分の感情を、緊急の注意を要する問題の合図として使い始めることができる。…… 恐怖とパニックへの対処。弛緩と緊張の切り替え。好奇心。大部分が立入禁止になっている感覚世界へのアクセス。そういうのが回復への道筋として描かれていた。とても興味深いと思った。トラウマ。はっきり言って僕はそれにさいなまれてるんだと思うけど、トラウマって言うと、すっごい大袈裟だなと思う。そんなたいそうなものじゃない。大したことじゃない。よくある些細な出来事だし。こんなのをトラウマのうちに数えるなんて心底PTSDの症状に苦しんでいる人に失礼とすら思う。僕と同じような経験をした何人もの前任者が、なにも大袈裟に捉えることなく健全に生き延びている。もしくは大袈裟に捉えたとしても、悲観することなく乗り越える。僕がそうじゃないのは、単に僕が努力を惜しむからで、保身が強すぎて、傷つけられたと思うと過敏反応して、こんなヒドイ目に合うなんてと針小棒大に被害を騒ぎ立ててるだけだからで、それに自己憐憫が止められない精神的ジャンキーだからで…、要は"気の持ちよう"で、"自己責任"。だから?だから大したことない?自分にとっては大したことだから、乗り越えられないでうじうじやっているのに?自分と誰かを比較してああだこうだとか、誰かにとってはどう見えるとか、自分が悪人なだけだとか、もういいよ。露悪的になって、どうせ僕はだらしない能無し、そうやってすねるのは、悪者としての自分を不憫がるためだ。結局、自己愛だよ。その自己愛が、自分で自分を守ることが目的なら、そんな遠回りしなくていいのに。自分を記述しようとすると、自分を裁く自分に必ず抑止される。あんたは普通にできるのに、普通にしていないだけだ。普通にする努力をすれば普通になれるのに、そうしていないだけだ。普通にしていたいなら、普通にしていろ。こうだ。あはは。そうですね。悲観的になるのも、自罰的になるのも、僕の個人的資質と好みによる選択でしかない。それを選んでいるのは自分なのだから、嫌だと思うならそれを選ばなければいい。こう言いたいわけだ。感情はコントロールできると。本当に?そうかな。そうだな。もしくは僕は当てつけのつもりで、陰険な怒りの発散方法として、悲観と自罰を運用している。そこに横たわる感情を裁き、疑い、判断し、抑え込もうとする自分に対して、抵抗のつもりで。聞く耳を持たれず、無視されていった感情がやり場を失って反撃する。自分を人質に取るやり方で。人質って、人質に値打ちがあってはじめて成立するんだよ。狂言自殺で場を引っ掻き回せるのは死んでほしくないと思う人がいるって前提があるからだけど、僕を裁く僕は別に自分に死んでもらっても構わないと思ってるんで、意味ない。というわけで迂遠な反抗は暖簾に腕押しぬかに釘なんで。わかっちゃいるけどやめらんねえぜー。いやもういいって。怒ってるなら素直に怒れ。悲しんでるなら素直に悲しめ。なんでいちいち屈折する。わからん。もうぐちゃぐちゃすぎてどこからほぐせばいいのか。僕が怒ってるのは、結局、自分が自分の感情をなかったことにしようとしてることに対してなんだろう。「そんなこと感じるべきじゃない、そんな風に考えるべきじゃない、そんなように在るべきじゃない」自分以外の誰でも、それに似た抑制の文言を目にするたびに、焼け付くような怒りを感じる。べきじゃないつったって、それはもうそこにあるじゃねえか。そうあるべきじゃない、その呪文で一切合切封じ込めようとしてきた。封じ込められないで、自分を責めたり、環境に文句垂れたり。なにかのせいにしては解決した気になって、一切を切り捨てられたつもりで。切り捨てられてねえから。感情、捻じ曲げて見ない振りして切り捨てれば解決って発想は、少なくとも僕の精神の上では無効って十分わかった。起こってしまったことをなかったことにはできない、だが、対処できるものはある、そうだよね?