頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納

「居場所」と銘打たれた居場所に居場所をみいだせた試しがない。

中島義道がどっかの本で長々書いてた。ずっと親の手足みたいに生きてきて自分の感情の所在をなくした。自分の手元に自分の感情を取り戻すために片端から怒りを表現した。どんな些細なことでも。ヒステリーの様相で演技過剰に。それで怒りと、怒り方と、自尊心を取り戻した。そんな感じの話。それを昔に読んだ。

怒っている人を見るととてもどきどきする。心臓が早鐘を打つ。全身が震える。みぞおちが縮こまる。喉が固くなる。涙が分泌される。自分自身が怒っているときにはそんな風にはならないのに。

怒っている人を見ると萎縮する。萎縮するのが嫌だから怒っている人を避けようとする。または、人を怒らせないよう努力しようとする。人を怒らせないように意識するから、常に相手のどこかに怒りの影を探してる。逃げ惑う。自分を隠す。なるべく怒られる要素のない部分だけ表に出すようにといつも思ってる。隠すと、隠したことでまた怒られるのに。怒られないように努力し、意識することをまた怒られるのに。隠さないでいても怒られる。どっちにしろ。自分に怒られる。

怒りを落雷に例えることがあるけどそれだと思う。雷に打たれたあとちゃんと復活できる方法を体が覚えてないと思う。打たれたら黒焦げで死んじゃって終わりだと思ってる。

父さんとまだ暮らしていたとき父さんは母さんとよく喧嘩をしていた。話の内容は知らない。記憶から引き出せるのは体に緊張を引き起こした感情の爆発と体の緊張の記憶だけ。話のりんかくを唯一覚えてる喧嘩は味噌汁がまずいとかなんとか。父さんには怒るとドアを強く締めて部屋を出ていく癖がある。怒鳴り合ってなにか捨て台詞を残して会話を遮断。足音強く玄関へ。タバコを吸いに。夜風に当たりに。車に乗って夜中どこかへ行く。あれはどこへ行っていたんだろう。ドライブが好きな人だった。海辺や、カルスト台地、深夜の山道を走る車に同乗した。

母さんは喫煙者じゃない。たぶん喧嘩のあとに見た記憶だと思う。玄関口の階段に泣きながら座ってタバコを吸ってた。普段吸わないから余計印象に残った。飲酒の習慣もない。今でも時々ひとりで、大抵は嫌なことの気晴らしで酒を飲んでいる姿を見ると、タバコを吸っていた姿を連想して悲しくなる。

足を畳んで、ひざに鼻をつけて頭を抱える。丸くなる。視界いっぱいに床とひざと体の影。涙の染み。そうやってた記憶しかない。喧嘩の場面。今も体がとっさに身構えたり、混乱したり、なにも考えられなくなるのは、その癖が残ってるんじゃないかと思う。というか、ここで時が止まってると思う。知らんけど。

人が怒ってるのを見るのは嫌で、従って自分が怒り感じていることを知覚するのも嫌で、なにもかもそうやって丸くなって見ないふりしようとしても、怒りはそこにあって消えない。僕が見えてるのは感情の爆発、その部分だけであって、なぜ怒っているのかとか、なぜ怒りを感じるのかとか、感情を爆発させてまでなにを求めているのかとか、そういう部分じゃない。子供の視野。