頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

お日記。

また職場から人が減った。すげー入れ替わってる。今度退職する人、唯一自分と年近くて、オタク気質なところも親近感あって、素直でひねくれたところがなくて、たまに話すときとか、話してなくてもいるだけで癒やしを感じてたんですけどね、空気孔みたいな感じで…またピリピリムード一色になるのか。

一対一の会話だからってのもあるのかもしれないけど、その人とは割となんでもない感じで雑談も話が続いて、緊張とかプレッシャーとか不安、恐怖、劣等感、被害妄想等々にもとらわれることなく、あっこういう風に会話することもできるんですね~っていう感覚、異様に慎重なだけで、僕は別にすべての人間に対して病的にコミュニケーションを恐れたり拒んだりしてるわけじゃない、それを思い出せた。慎重と言うわりには口を開けば失言ばっか。それが嫌だから慎重に口数減らしてるのもあるけど。なんかいろいろ話しました。あなたもそうお考えですか!って思う瞬間が多かった。一番おお!と思ったのは剃髪願望があるっていう共通点がわかったとき。定期的に坊主にしたい期来るんだけどあれなんなんだろう。その人は坊主経験済みで、洗う手間もないし床に落ちる髪のゴミも減って鬱陶しくないし、楽だしいいですよってさ。いいな。一回やってみたいけど似合わないのがわかりきってるから坊主の自分を想像すると若干憂鬱になる。でもいいな…。

それにしても、基本的に価値観や文化圏が近い人となら気を許して会話できるということなんでしょうか。逆に言うとそこを遠く感じてる人には警戒し続けてるっていう…。ずっとその状態なのは本気で神経すり減るんだけどな。それに単純にすごくもったいないことしてると思う。また異文化交流の話ですか? でもあれだな、初対面でまだ性格をよく知らない相手とか、継続的な関わりがないとわかっている相手なんかだと、割と素に近い状態でリラックスしてる傾向はあるかも。で、関係が継続的になっていくと怒られたくね~嫌われたくね~ってなって一人相撲のチキンレースがはじまる。赤ちゃんすぎる…。

なんでもない感じで喋れたとは言え、それでも日頃から積極的に気さくに話しかけにいけるほど、そういう行動パターンが習慣づけられてないし、できてたらジタバタしてないんですけど、とにかく僕はそういう日常的な、関係を持続させるためのコミュニケーションを本当に苦手に感じてるんだな、と思った。そういう会話に抵抗薄い人ほど、そのぶん人付き合いも長いし、多いし、見えてる世界の範囲がそれだけ広いと思う。僕はそういう人をうらやましく感じ、そうでない自分と比較して、期待を満たさない自分を劣っていると見なすんだろう、とも思った。で、こうやって比較比較自分自分で余計なことばかり考えているから視野も狭まるんじゃないんですか、と即座に蹴りが入り、そうやっておまえが茶々入れてくるからその応戦に意識が割かれてますます狭まってるんだが、と喧嘩が始まる。飽きないねしかし。

継続的な人付き合い…。高校の時のつながりがなくはない。でも、それもアクションを起こすのはいつも向こうからで、全然一向に自分からなんも働きかけなさすぎて、もう縁切れてるも同然だけど。その人とは文化圏も価値観も近かったけど、すげえ被害妄想と恐怖を感じやすかった。いや、話してて楽しい瞬間はあるし、かまってくれてありがとうだけど、なんか妙に批判的というか、規律に厳しい部分があって、そこばっか気になって全然気が抜けないというか、ひえ~っていう。怒られる~。事あるごとに、関係を維持しようという努力をお互いにしていなかったら縁とはすぐに切れてしまうものなのだから、維持しようという気概が見られないならそういうことだと判断してしまうし、友達だと思ってるなら維持しようという気概を見せてほしい、みたいなことを誰に向けるでもなく言ってるんだけど、それ聞くたびに自分の方を向いて言ってるなと毎回思う、ていうかまんま当てはまるからそう思うんだけど、はいその通りです!維持しようという気概がありません!!すいません。一時期がんばってみたけど、もう笑っちゃうくらい向いてなさすぎて、これは本当に無理して続けるものじゃないと思った。今でもそう思ってるんで、改善の兆しもないし、見放してもらって結構なんで…と思いながら遠目で見てる。で、僕はそういう風に思ったなら思ったで、相手にはっきり意思表示すりゃいいのに、それも黙って見てるっていう最悪の行動を取るから、そういうところが最悪なんだよなとまた思う。自分の意志を表示するべきだ、行動を起こすべきだと感じている瞬間に、体が硬直して結果的に見ないふりや無視という行動になって現れてしまうとき、本当に自分のことを地の底まで嫌いになる。嫌いになったところで行動が変わるわけでもなく、行動を変えるでもなく、動けないままで、自己嫌悪のループ。うーん。

しかしそもそも、親戚付き合いにしてもそうだし、そういう、関係を維持するためだけの関係っていうのがめちゃくちゃにだるい。だるいです。お互いに、気が向いたとき気が向いたときだけ付き合うっていうのが一番ラクです。何らかの益を得るなり、やってて病的な疲れを感じない人同士が関係維持努力をし合っているのは傍から見てる限りやってるねいって感じだけど、自分がやるとなるとそこに感じる疲労感徒労感がでかすぎるから、それ続けて消耗するくらいなら、孤立してるほうがマシと思ってしまう。で、そういう態度だから人付き合いが下手になるのはそりゃそうなるって話だし、自分のそういう態度を棚に上げて疎外感がどうだの言い出すのは理屈に合ってないだろうと思う。そうですねと返答する。改善をする気はないのかと質問する。とっくに試して尋常じゃない消耗を感じ続けてムリになったので諦めていると回答する。なら諦め切ればいいのに!と思う。まだ自分に何かしらの期待をかけてるから、そのことを気にし続けて自意識過剰になるし、「それをできるようになれ」みたいに未練がましく言ってくる自分がいる。「努力が足りない」と。いやいや、もういいでしょ。十分やったよ。やりたくないことがんばって、努力して空回りして、そうまで得ようとしてるものの正体が、「それ」ができるようになったら、「それ」ができないことで怒りや不信を感じる人から、怒られたり除け者にされなくてすむようになるから、そういう動機なのがもうしょぼすぎて。もういいじゃん、だったら、自分は一生怒られる人で、一生除け者でいいっす、へりくだって忖度してまで維持すべきものじゃないだろう、とかいって、開き直ったクズになってしまう。白か黒しかねえのか。でも、開き直ったクズと、忖度する臆病者、どっちも見苦しいんだったら、僕は自分のクズさを認めまいと懸命に矯正的になるより、クズさを認めて鷹揚に過ごしているやつのほうが好きだから、自分を好きになりたいから、開き直ったクズ、結構なことじゃないかと思う。まあ開き直ってみたところで、芯まで染みついた臆病さは消えなさそうだし、ジョーカーみたいにはなれないですよ。

ジョーカー!ジョーカー見たよ。僕の好きな人が軒並みジョーカージョーカー言ってるんでどんなもんじゃいと思って見てきて、死ぬほど暗い気持ちになって帰ってきた。なんかもう、なるようにしかなってないじゃん、どうしようもねえじゃねえか、じゃあどうしたらよかったんだよと思って。それはもう社会のシステムからアーサーの出生からジョーカーの誕生まで、精巧なパズルみたく収まるところにしか収まってなくて、逆にどういう要因を加えたらこの物語には別の形があったのか。そうなるレールがあらかじめ引かれているとしか思えなくて、こうしたらこうなるよねっていう負のピタゴラスイッチ見てる感じだった。なんか既視感あると思ったんだけど、ニュース見てるときの気分と同じだ。起こるべくして起きてる現象でしかない感。社会に貧富の差がなかったら、アーサーはジョーカーにならなかったのか。虐待がなかったら、病気がなかったら、福祉が生きてたら、銃がなければ、"イジメ"的な干渉すべてが存在しない世界だったら、アーサーとペニーがもっと深い対話をできる関係だったら、アーサーに心を許せる親しい人が本当に居たら?けど、そういう数え切れないたられば全部が仮に「望ましい」とされる状態に置換されたとして、きれいにハッピーな形に収まってる物語を想像できない。なぜなら、いずれにせよ、格差とそれがもたらすいびつさは人間が集団として生きる以上、形を変えて長いこと同じようにあり続けてるんだし、アーサーがあのアーサーでしかないのは環境要因以上に個人的資質のほうがあまりにも大きいし。ゴッサムシティが政治的にガソリンを帯びてない街だったとしても、あいつはジョーカーに近い何かになったんじゃないのと思った。正常と異常という概念があって、どうしても正常さを期待される世界で、いくらパーツを換装しても土台がいかれてるんだったら「正常」な動作は期待できない、で、土台がいかれてる人間にとっては「異常」とされる動作こそが正常な動作に当たる。それがすごい悲しいと感じた。けど、やっぱり喜劇でもあるなと思った。異常がなかったら生まれなかったカタルシスがあったから。それにしてもアーサー、人から認められたがりすぎだなと思った。社会人として、コメディアンとして、息子として。ジョーカーっていう適役に落ち着けて、それで生きやすくなって、生きることに喜びを見いだせたのかな。