頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

一度自分が恥ずかしくなるモード入ると、たがが外れたみたいにずっと恥ずかしくてしかたがないな。

たがって字、箍って書くんだ。脳内の、読めるけど書けない漢字リストに入ったな。箍、桶とか樽の木板を固定してる輪っかのことらしい、知らなかった。こんなふうに意味を知らないで使ってる言葉や慣用句がもっとたくさんあるんだろう。知らない間に身についてた。いつどこで覚えた言葉なのか忘れたな。こうやってどんどんいろんな言葉が水の流れみたいに泳いで通っていって、たもに引っかかった言葉が選ばれて語彙に加わる。引っかかるかどうかは接触回数や衝撃の度合いや、単に好みかどうかとか、むしろ嫌いな種類のものほど反動で強く印象に残って引っかかったり、あるいは音の気持ちよさ、文字の並びの美しさなんかが考慮に入ってる。と思う。それにしても、いつかどこかのタイミングでは初めて知った瞬間があったのに。初めて遭遇したとき、「それっていうのはどういう意味?どんなもの?どういうこと?」そうやって興味を持って知っていったはずなんだが、なにもかもきれいに忘れている。忘却力がすごい。どんなに強い印象を抱いたことでもどんどん忘れていくので、今でも覚えてることって、よっぽど強烈な感情をまとってるか、反芻のしすぎで忘却曲線を描いて、定着しちゃったものなんだろうな。けど、相当反芻繰り返したな、これについては、などと思っていたことでも、はい記憶力テストねって、いざ想起を促されるとぜーんぜんなんの取っ掛かりも思い出せなかったりする。なにもかも忘れていく。昨日の記憶も10分前の記憶も、どんどん薄れていく。少し怖い。でもそんなもんかという風にも思う。こうやって白痴として生きていくのも悪くない。絶対に覚えておかなければならないことってなんだろう。大切なものが多いほど記憶は膨らむんだろうか。大切じゃないなら忘れていく?別に大切じゃないものでも案外長いこと覚えていたりするし、大切なことほど忘れていたりするから、その法則は当てはまらないな。長いこと覚えていた大切じゃないことこそが大切、みたいになったりするし…。記憶なんてその性質からして曖昧なものだよね。記録をつけなかったことは、なんならなかったことになるんじゃないか。記憶の媒体が自分っていうハードだけだったらそうなるだろうな。人は人を外付けハードディスクとして使うことがある。というか、そのようにお互いを活用し合っている。それが社会性。それも、社会性。活用。活用と利用の違いってなんだろう?見てる対象は同じで、単につけてる眼鏡の色に合わせて映ってる色が違うだけ?サニーブレイン、レイニーブレイン。こういうことは覚えているのか。こういうことばっかり考えているから。でも、こういうことに関してでしか饒舌になれないや。自分の精神状態か、それに関係のあることについてしか。こういうことならいくらでも喋れるのにな。脳内だいたいずっとこういう状態。

恥ずかしい。

イタい、黒歴史中二病、そういうワードに過敏に反応しなくなって久しいけど、それはもう、もう諦めてしまったからしかたない。そういうのって嘲笑される対象なんだなぁって思って眺めてる。そういう嘲笑を内在化して自分を野次ってみても、うんうん、そうだねーって肯定して終わっちゃう。そう見えるだろうし、そうだしなあ、そうだねぇ、それで…それで?っていう。それで…でも変われない。だから恥ずかしい。なにが黒歴史だよなぁ。言っちゃあ今この瞬間が黒歴史だし、一秒前を振り返るのも恥ずかしい。自分を客観視した瞬間全部が黒歴史。なんである一部分だけ切り取って黒塗りにして、キャーハズカチー、それで済むの?全部だろうが、恥ずかしいのは。生きてる全行程が恥。黒歴史を「黒」と認定して、それを認定している自分自身を「黒」じゃなく感じられるのはどうして?なんでなんで?なんでなんでーなんでなんでなんでじゃい。

非・等身大の自分を装って、カッコつける、という前フリをしないと、なにも表現できない。表現された自分はすべて、非等身大だと思う。等身大等身大っていうけど、なにが等身大に当たる自分なのか、もうわからないし。教えてくれよじゃあ。どうするのが普通なのかさあ。全部演出だろうが。全部演技だし、全部が等身大だろうが。全部演技のくせに、それが演技じゃなく感じられるのは、「黒」じゃなく感じられるのは、それが演技じゃなく感じられるくらい自然に演技し続けて、その瞬間は没頭していられるからで、で、役から降りた瞬間、「黒」ってわけですかい。それで、どういう演技が恥ずかしいとか、そういう役はこの演劇にそぐわないから浮いててイタいとか。勝手に参加したことにさせられてる。その演劇に参加した覚えはねえ。共通の演劇なんかなくて、一人につきひとつの劇場があって、そこでずっと一人芝居してるだけだ…、つってたそがれてみたりして、恥ずかしいか?あはは、もう全部全部はずかしー。なんも言えねー。自分を客観視しながら恥ずかしくないでいられる人は、なんで恥ずかしくなくいられるのか。自分の中に作った劇場の、演劇と役と演技のすり合わせがうまいんだ。恥ずかしくなくなりたいな。自意識過剰をやめれば解決って言うけど、適切な自意識ってなんだよ、それがわかんないんだよな。適切な自意識。適切な自意識…。ずっと自分に視線が向いてて、それがもう恥ずかしいし、恥ずかしいと感じるのは、自分に視線が向いてるからこそで、自分に視線が向いていることが恥ずかしいことだ、という思い込みが恥を感じさせているが、それを恥だと定義することもまた恥で、何回同じ階段をループしているんだよなぁ。

なにがそんなに恥ずかしいんですかね。自然体が不自然だから恥ずかしいんじゃないかな?傍から見て自分は不自然に見えているんだろうなという想像がそう感じさせる。外から見た自分?大人こども。逆コナン。自分だけいつまでも子供で、周りはみんなうまく大人を演じられていると思う。大人を演じる必要がある場所で、自分はそれを演じられないから恥ずかしい。演じられないっていうか、意地で演じてないだけという。それに、単純に自分の外見が恥ずかしいのもある。外から見る自分の姿が嫌い。違うか。人から見られているときの自分の姿が嫌い。自分が自分を見ているぶんには別に平気。なので僕は、肉体と精神を都合のいいときだけ切り離して、離れて眺めることができる。切り離している間は恥ずかしさを抑えて、人と応答することができる。抑えた恥ずかしさが、こうやって返ってきてるんだろうか。切り離している間の自分と、今恥を感じている自分を、くっつけ直すことはできない。もう分かれちゃってるから、それは別人。別人として扱うしかない。そういうのも分人って呼べるのかな。人と応答しているときの自分と、自分と応答しているときの自分は別の自分。そういう様々な別人になった人格を、肉体が総て、かろうじてつなげている、そういう認識。自分と応答しているときの自分は、人と応答しているときの自分を憎んでるよね。なんだっけ?自然体が不自然か。自然体ね。卑屈でいるのが自然体なんです、とか言って、開き直って思う存分拗ねてると、うじうじねちねち鬱陶しいと、じゃもっと素直に正直にと思って力抜いたら、幼稚で見苦しいとか態度がでかいとか。もういろいろ理由を作って、とにかく自分で自分を殴る。殴られて腹が立って凶暴な気持ちになって、それをそのまま素直に正直に開放してたら、八つ当たりの通り魔になった。なにがしたいんだよ。試行錯誤がしたいんだよね。自分を殴るのやめなよ。喫煙者にタバコやめなよとか、酒飲みに禁酒しなよって言ってるのと同等の進言を賜ったな。いや、やめたいけどね。自分と応答しているときの自分が、人と応答しているときの自分を憎んでるように、人と応答しているときの自分は、自分と応答しているときの自分を憎んでるね。多分、ずっとその葛藤。

ローテンションで落ち着いて、比較的起伏少なめで、淡々と自分を観察できている。という自分の様子を観察して記録している。そうか。感情が肉体に宿ったままだと、ちっとも他人事みたいに感じられないから、文字に転写して一旦他人にしてるんだ。文章は感情の転写。感情の転写は人格の転写。それが視覚化されて…視覚化されると冷静な時に振り返ったり、細部を観察できるようになったりする。あんまりそういう風には活用していないけど。出しっぱなしで。ああ、あれ?おかしいな。なんかもっと、これがコアにあって、切り離してこれこそが観察したい部分、そういうのがあった気がしたのに、たらたら書いてたら忘れた。忘れたし、書いてるうちにこの瞬間にもどんどん、恥ずかしさが薄れていってる。忘却力がすごい。