頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

一時期は毎日更新してたんだけど最近めっきり腰が重くなってしまった。習慣って、いかに腰の重さを軽くできるかにその継続がかかってるから、一回腰重ーと思ってしまうとすぐ崩壊する。これがあるんで気負わず適当に雑に神経質になりすぎず手癖でっていうのをすごく意識してたんだけど。そうまでして書く意味、意味っていうか動機が。

自分の考えていることは基本的に、言葉にならず抽象的な概念として脳内に留まっている。言葉にならないのは、喋る相手がいないからっていうのがある。相手がいないというのは実際に人と雑談なり個人的な話なりなんにせよまともに自分の考えを喋れないという意味もあるし、物理的に、話しかける=恐ろしいことというふうに体が理解しているのでよっぽどじゃない限りナイという意味もあるし、いろいろ。

まともに自分の考えを喋れないのは、自分の考えに対して異を唱えられたくない、それは間違った考え方でこう考えるのが正解だというような倫理的正しさを説かれたくない、そんなふうに考えるよりこう考えたほうがよいというふうに誘導されたくないからで、うわすげえな。もうめちゃくちゃ自分が可愛いわけですね。あたりめーだろうが自分第一だよ。とにかく、もう、自分の考えは、ある視点に立って見たとき、間違った考え方であり倫理的に正しくなく、そんな考え方よりももっと別の合理的で筋の通った考えがあると、言われるに値するものだとわかってるから、いちいち口を開いて矢面に立って、立つたびに思考の軌道修正を促されるのに、嫌気が差している。口を開かなくても、そこら中にそういうメッセージが溢れていて、「こう考えるべき」「このような人間になるべき」「このような人生を送るべき」、そうですか、うるせえしね以外の感情が消えて、瞬間的に怒りが沸騰して瞬間的に怒りが冷めて、諦めが満ちて、耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になってしまいます。

すげえ、すごい馴染むこのルサンチマンたっぷりの管巻き。これですね。中身が無。単なるストレス発散。そうだよ、意味とか動機とかぐちゃぐちゃした理屈なんかない、ストレス発散だよ必要としてたのは。ていうかまた同じ話してるし。

考えを否定されるのがヤダから喋りたくないってめっちゃアホだな。自分と自分以外とは最初から異なった存在なのだから考え方が異なっているのは大前提だし、僕自身異なる考え方に対しては否定的姿勢で挑むのに?人からそうされるのは嫌なんか?そうです。うける。

「否定的」って一口に言うけど、ある考えに対して、否定的であることと、軌道修正的であることと、拒絶的であることと、反撃的であることと、嗜虐的であることと、排他的であることと、いくらでも細分化できるけど、そういう印象を全部ひとまとめにして、否定されるのヤダとかいってるのが、すごい幼いなと思った。相手には相手の理屈と道理があって、それをもとに否定的考えがあるわけで、でもそこに思い至らないで、ただ自分がすごい痛く感じることをしてくるからヤダ、みたいな。僕はすごく、印象というか、感情というか、最初に感じる衝撃にかなり思考を左右されるところがある、痛い、まずい、気持ち悪いとか、理屈じゃなくて五感で印象を決定していて、これがかなり差別的だなあと感じる。自分は相手から、突然ぶたれたり、まずいものを無理矢理食べさせようとされたり、気持ち悪いものに無理矢理触らせられる、と思う。コイツはそういうことができる、だからキライ、で印象が固まって、漠然と警戒を感じながら接し続けることになる。どんなに表面上お互い親切に振る舞えていても、でもコイツは突然無理矢理痛いことをしてくるやつだし、と思って、絶対に距離を取る。そんな感じ。相手の全部を受容して一切無警戒っていうのも非現実的ですけど、警戒しすぎて逆に視野狭くなってる。だいたいこんなふうに考えるのは、痛いのもまずいのも気持ち悪いのも、全部常に僕自身が他者にそう感じさせているからだ、それも無理矢理に、と思うからで、どっちがどうっていうか、それはまあ鏡写しになってるんだけど。はいまたヤマアラシの話してる。なんかそれは結局しかたないことなのではと思う、存在するということは、他者と接するというのは、そういうことなんだと、痛かったり気持ち悪かったり、楽しかったり快感だったりは。磁石の極みたいになってて。単独であるわけじゃない。でも激痛を感じてる間ってクソいてえ以外他になにも考えられなくない?そして、そういう激痛をなるべくなら与えたくないと思っているから無口になる。痛みを与えたくない?でも心の底から本当にそう思ってるならとっくに自殺してないとおかしい。生きてる以上どこかの誰かのなにかの害になっていてならざるを得ないようになってるのに今こうやって口開いて生きてるんだから心の底から本当にそう思ってるわけじゃないんだよ。また死ぬとか言ってる。なんですぐ生き死にに話が飛ぶ。

結局僕は自分の痛覚にばかり意識が向かっていて、そこから出られない感じに苦しんでるのか。痛覚の外側の世界があるのに。

こんな具合に、本当の意味で他人と、その価値観と、人生と、対峙を避けて続けてきて、今も避け続けているから、いつまでも幼稚だし、いつまでも理想主義的なんだろうか。

幼稚で理想主義的な自分を「悪いもの」だと考えてるらしい。

幼稚で理想主義的な態度は机上の空論よろしく、本当の意味で他人とその価値観とその人生との対峙を避けるような姿勢になりがちだから?

対峙を避けることを悪だと感じてる。

だったら蔑視してるのは逃げ腰な姿勢にであって、幼稚さと理想主義を「悪いもの」とするのは違うのでは?

幼稚さと理想主義的態度には、地に足がついていない、現実や現場の実情を度外視しがちって共通点があって、そこが気に食わないのかも。

実情を度外視?

とにかく実際には「そう」なのに、「それはある」のに、「それがあるのはおかしい」みたいな前提で、「ある」ものを「ない」ことにして話を進めていくから…そういうところが…。

まじで考えるのがへた。

僕は全然言葉を使いこなせていなく、むしろ言葉に使われているので、使う言葉に対して非常に懐疑的で、いつもこれはどういう意味なんだ、どういう定義なんだ、どういうつもりでこの言葉を使ったんだと自分を問い詰める、それが自分以外に対してもそうだから、それを人に求めるのは酷だよな、と思う。思うし、実際に酷なことを要求してるなと思うから、そういう欲求を抑えて、適当に話を合わせたり、適当に思ってもない嘘をついたり、適当にごまかして適当にやり過ごしていき、そうするたびにどんどん自分を嫌いになる。これ以上自分を嫌いにならないために、ここや、ここみたいな場所は必要。