頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納7

最近の僕は自分の不調に自己嫌悪しなくなってきた。不調というか変調?

前はもっと一挙手一投足に自己コントロール感を求めていて、期待にそぐわない予想外の、不快感を催す、うんざりするような状態に、心身問わず陥ったとき、そのことで打ちひしがれたものだ。なんてダメなんだ!ひどい有り様!幻滅する!おまえを永遠に軽蔑する!云々。このごろはまあそういうこともあるよなという程度の受け止めようで、なんなら変調をおもしろがる余裕がある。こういうときの自分ってこういう感じ方や考え方に走るんだな、そういう、発見の喜びがある。なんか前にも似たようなこと書いた気がする。まあいいや。どっちにしろ似たようなことしか書いてないんだし。自分の変調に嫌悪を催す周期と、鷹揚に構えていられる周期とがあって、今が後者のタームなだけという気もする。そしてだからこそこのように余裕を持って考えられているのだとも。実際クソな気分のときは非常に破滅的な思考回路に支配されてそこから抜け出せないのも確かなんだし。このことはクソな気分のときにも十分念頭にあり、頭では理解しているんだが、クソ気分に支配されている瞬間はだからどうした?以外感想ない。それで?それでこのクソが自分になにをもたらしてくれたんだって?クソでしかないやんけ、つって。それでも、鷹揚な気分のときの感覚がかけらでも思い起こされると、それが御守りとして機能する感じはある。

 

なぜ人に怯えるようになったのかのきっかけについて思いを馳せていた。原因として一番に思い浮かぶのはやはり不登校不登校っていう言葉に謎の嫌悪感があるんだがなんなんだろう。手垢つきすぎてるから以上の理由は思い浮かばないが。その言葉に付随する、付随されてきた、イメージの数々に対しての嫌悪感という感じ。不登校という言葉に意思とか人格を感じづらいから?意味は同じだけど登校拒否のほうがまだ不快指数低い。登校を拒否する主体が明確に感じられるからかも。不登校って俯瞰目線の言葉でいかようにも付け足せる余地があるから、その余地に書き込まれてきたあれこれに対して憤懣やるかたないのかもしれないです。いきなりすげえ脱線してるんだが。いや全然脱線と違うよ、むしろ本筋だよ。その不登校ってワードに付加され、書き込まれてきたイメージこそ僕が強迫的人間不信を発症させた原因なんだよ。"矯正すべき問題行動"。非常識、不真面目、怠惰、甘え、過保護、過干渉、非自立的、などなど。それに、学歴についてのイメージ。人生は一本道で一歩レールから外れると一生取り返しがつかないし、そのことで蔑視、疎外、迫害され続ける、といったイメージが徐々に形成され、やがて学歴がレール通りでない者は、まともな人権など保証されない、とも思い込んだ。その思い込みは、特にインターネットの人間を見ていて強化された。人権、保証されてるのが当然の世界だと信じられていたくらいには、なにも見えてなかった頃の話だよ。周囲を見渡せばすぐにでも飲み込めそうな話だ。自分自身を含め、暴力に満ちてるのに、人権もクソもない。インターネットでは、無名で無形で顔も歴史も知らない人々の、心ない正義の心、その内実うかがい知ることができた。正義。正しさ。「正しくない人間」に対する仕打ちを見聞きするほど、抑えが効かないほど強迫観念は増幅して育った。ていうかインターネットの正義の人、今も昔も、全然変わってないっすね。ゆたぼん氏なんかへのリアクションとか見てると、むしろ母数増えてるだけ威力えげつねえなと思うよ。

僕が実際に対面で接してきた人間の中で、あからさまに過激に自説を、学校に行かないやつは人間のクズ、レベルで説法説くやつと出会ったことはないが、その匂いを感じる人間は相当、多かったし、今でも多いと感じる。共通点として、考え方の根底が学校組織、学歴、資本主義システムありきで、問題とされる範囲が学校に通えないこと、非社会的であること、そこに留まる。前提にあるのが人間性じゃなく、人材性なんすよ。役に立つか使えないか、有能か無能か。そうやって利用価値を値踏みする。どうすれば既存のやり方に適応できるようになるか、どうすれば社会性を取り戻せるか、どうすれば無能は有能になり、どうすれば損を少なく得を多くでき、どうすれば傍迷惑な存在から誉れ高い存在へと転換できるのか!取り沙汰にされるのはあくまで、社会システムにおける解決すべき障害。いかに障害を克服するか、そればかりだ。そのような考え方に触れるたび、僕は、こういう人は学校に行けないのは障害だと思っていて、障害とは害となり障りがあるという意味で、害で障りがあってそれを取り除きたいと思ってる、ということは、じゃあ学校に行けないやつはクズってのと言ってることの根は同じやんけ、そう解釈し、ますます思い込みは強化された。障害を克服しよう、それは、クズはクズでなくなるための努力が必要、そう言ってるのと同じ。ああ、なんの疑問も持たずに心からそう信じている人間のなんと多いことか、かく言う僕だって、学校ボイコットして正義の棍棒で「自分が」殴られるまでは克服と努力を信仰していたし、ていうか殴られたあとむしろその信仰心は強まったくらいだ。もっと努力し、克服せねばならないと。そうだ。努力と克服を信仰していたからこそ強いダメージを受けた。そいつを志し、正しいと思う価値観がなかったなら、だからなに?で終わる話だよ。なぜクズはクズだとダメなんだ?怠惰で甘えたで非常識で不真面目。過保護に過干渉に育てられ、非自立的?そうだ!それは紛れもなく事実だ!認めるよ。僕はクズだ。それで?だからなんだよ。なぜ、そうであってはならない、などと思い込むんだろう?クズであることは望ましくなく、常識的で真面目であることは望ましいと、なぜそう思う?たとえば、クズさを理想のアイデンティティとして掲げ、クズである自分を誇りに思ってる人だっているわけで、非クズではなく、クズであることを理想とする価値観だってあったのに?ということは、僕は常識的で真面目であることを誇らしく思い、そうでないことは不名誉なことだと、そう思え、信じられる価値観を持っていたからこそ、強いダメージを受けたし、病的に怯えまでしたんだ。

人からクズだと思われるのはよくない、クズであることは悪だという価値観。信念。それはどこからきた信念なの?人々から。普通を求める人々。普通通りであることを至上とする考え。普通教。集団狂気。その信仰の力を認めたことが、迫害への恐れに展開した。

えーと。そういうわけで、10代の僕は自分が登校拒否し、自室にたてこもり、すべてを拒絶したそのことで、この先ずっと矯正のための鞭で棒で、あらゆる非不登校者から、出来損ないの知恵遅れの足りない危ないいびつな存在と思われ、扱われて続けていくんだろうな、とゆっくりじっくり長い時間をかけて、噛み締めていた。そういう確信を持つに足るだけの、根強く行き届いた教育精神を、あまりに多くの非不登校的属性を帯びた人々から、長期に渡って受け取りすぎた。

ところで、強迫的人間不信、それは偏見の別名です。「非不登校者」とかいう「属性」で、複数の個人をひとつに束ねて、コイツは「普通」のレールに乗れたまっとうな人間だから、まっとうでない僕を下に見たり蔑んだりしているに違いない、という偏見の眼差しで相手を見る。蔑みを含まない考え方、値踏み抜きでまっとうに扱ってくれたメッセージだって発されていたのにも関わらず、それを無視してどうせコイツも、と穿って見ることが、下とか上とかいう概念を持ち出して相手を見ることが、相手は「普通」だという目で見ることが!差別や偏見でなくてなんだって言うの。それで…今もまだ完全には根の抜けていないこの偏見が、対人面でストレスを感じる大きな要因になっているんだろう。

 

書き殴りながら、かなり被害者意識がにじみ出ていることに気がついていて、僕はそのことで自分を不服に思っている。なぜなら、確かに僕は非難されるいわれがあるだけの加害者でもある、と思っているから。優秀な生徒を求める学校、有能な人材を求める資本主義システム、清く正しく美しい完璧超人を求めるあらゆる人々に対して、甚大な被害と迷惑と損害と失望とを、僕は与え続けているからであります、言ってるそばから被害意識丸出しかよ。でも、一番それらの期待に報いることを自分に求めているのは、いたのは、結局自分自身なんで。自分を一番殴ってるのは自分。そうして、殴られることが許せなくて、殴ってる自分をまた殴ってる自分と。内省という名の暴力の連鎖。そんなようにして僕は自責と自罰に始終時間を費やしていたわけです。あほらしすぎるな。暴力も、喧嘩からの仲直りで済めば得るものもあろうに、平行線で殺し合うだけじゃね。

暴力。被害や加害のきっかけは、いつも期待なんだよ。期待に応えたいという欲求、そいつが強く働いて、結果、期待にかなわない自分を強く責める、病的にまで。期待が薬として働く体質もあるだろう。でも、僕には毒としてしか受け付けなかった。いろいろ試して、いろいろな期待を自分にかけて、それでわかった結果だよ。そうかといって、もうなにも望みたくない、もうなにも望まれたくないとかいって、今度は期待恐怖症みたいになっちゃうのもなんかね。僕は……どこまで行っても……。

滑稽なことだね。実際どこまで行くんだろう?行くところまで行ってみたいな。どこにも行き着かないよ。堂々巡りだろ。まあ、自然に任せるよ。で、自然に任せた結果不自然な存在になる。不自然さから脱したくてもがいて。でも、そうやって不自然であることもまた、自然の成り行きの一部なのさ。あはは。はー。おもしろい。全然自分に飽きないな…。いや、だいぶ飽きてるけど。飽きたり飽きなかったりしている。自分っていうか自我っていうか、表層意識には飽きてるけど、自分の感覚には飽きない。生きることの最大の娯楽は生きてることそのもの。