頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

ソー・ドント・シング・ラブソング・フォー・ミー

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毎日違う種類の木の葉っぱを食べるんだって
おっきいマンションができるんだよー
遊ぶのー? ううんー塾ー えー? 塾ー がんばれー うんー
あんま言っちゃ悪いけどかたまりみたいなの味噌見るとー
俺何回見せられてんのおまえの発案
本日もご来店いただきまして誠にありがとうございます、エレベーターをご利用のお客様はお足元に注意して、お子様連れのお客様は
トマト、トマト、おかずはトマト
いない いないねえ、あっちにいるよ
ここを突き当たり右 階段登って矢印の
まもなく、二番線に、各駅停車
四番線、ドアが閉まります、ご注意ください

参与観察は「研究対象となる集団や組織に調査者自らが参入し観察する営み」であるため,その渦中では調査者もまたフィールドの状況に巻き込まれています。参与するということは,状況に身を委ねることです。もちろん,完全に身を委ねきっては観察ができでなくなるため,委ねつつもそこから距離をとってフィールドノートを記録するわけですが,しかし目の前でボクサーが出血すればフィールドノートは脇に置いて応急処置を手伝うことになります。やはり参与観察の渦中では,調査者も状況に巻き込まれているのです。そして巻き込まれるがゆえに知ることができるフィールドの特徴もあります。

景気が悪い 灯油はあれだったね
じゃん まあな 説得によると
ブレーカー壊れちゃう 若い子はいいんでしょうけどね
ママ寒いー? 寒くないよ 寒いでしょ 寒くないー
蒸し焼き
忘れ物がないか確認してください、ご利用ありがとうございました
れたらわかる性別
たら、なんか隣の店に一人で来てるおじさんが
ちょっとデカそうじゃね もし街角が
それ届かないのめちゃ困る スーパーボールが
同じマンションだよー
なのめっちゃ時間かかる 足痛いの? え? 大丈夫? うん
ようれつしゅうとか間違いないよ
ずぞああ 糞野郎
それでー、思いっきりがってやるの
四番線ドア閉めてますご注意ください、四番線ドア閉めてます、ドア閉めてます、ご乗車にならないでくださーい

が果たされません。また,文字で表現できることを容易に放棄しないことも,研究では大切になります。「文字で表現できないから写真で示す」という態度は,文字も写真も,どちらも中途半端な使い方にさせてしまいます。ギリギリまで文字で表現するという態度を保持するからこそ,逆に写真の使用法が鮮明になるのです。たとえば,海外の著作になりますが,アルゼンチンのスラム街についてのすばらしいエスノグラフィーであるFlammable(2009)という作品があります。この本の第2章では調査地の概況が記されているのですが,そこに添えられている写真は住民自らがカメラで撮ったものです。この本の著者であるアウエロとスウィッツェンは,住民たち自身が身近な世界をどう捉えているのかを捉えるために,住民のファインダーに収まった写真を提示したのです。写真は,どういった意図でどういった方法で載せるのかを

うん、後ろについてるっ、二重についちゃってるから
三週間だっていうから多分対応してない
たった七回でー、その
なんかいろんなもの壊す うん 真似してたらー、なんかガードレールが
理想はぁ副題的なものを示す 知るか
えーこわーいそんなこと絶対できないよ、そんななんか、殺人みたいあはは
一回折らなかったらねえ、ゆるいんだよ
適当につけたのに どうゆうストーリーなの
人にさあそうやってさあ、プレッシャーかけるでしょ
独り身になった瞬間に、食費が浮いて千円で食える、よっしゃあみたいな、アホみたいな考えに
たらったったらーん そこはずすの ゲージちょっと強かったべ え? ゲージちょっと強かったっしょ はずしていくう
墓場が、じゃあお先にみたいな
でいっかここまで来たし いや俺こっちから来たよ まだ行けるってー あっちから来たんだっけ

の重厚な著作で,池田浩士は次のように述べています。少し長いですが,引用します。過去の歴史のひとこまをふりかえろうとするとき,もっとも困難な作業のひとつは,その時代の現実を具体的に生きた人間たちを等身大で想い描くこと,その現場の感情と視線を具象的に追体験することである。たとえば「侵略」という言葉も概念も存在せず,殺戮も収奪も蹂躙も「進出」の錦旗の下に正義の一片とされた現実だけを自己の現実として生きた人間たちを,わたしの隣人として,わたし自身として,いまの現実を生きつつありありと現前させることの困難が,ともすれば,侵略を「侵略」と明言するところでわたしたちを停止させてしまう

咳払い、靴音、笑い声
信号の点滅、車輪の回転、走行音、ブレーキ
雀、カラスの声、日陰の熱風、赤い入道雲
……
(全人類兄弟 けんちん汁ちょうだい)

たように,「他者の合理性」を理解することは調査者の「ものの捉え方」のバーションアップと深く関係するからです。通俗的な「ものの捉え方」は,調査者が事前に携えた枠組みを自明に物事を解釈するので,読者がハッとするような記述が生まれません。ですが,社会学の参与観察は,こうした調査者の枠組みを問い直し,対象を論じ直すことにその魅力があります。そのとき,私たちに「他者の合理性」が視野に入ってくるのです。たとえばアーヴィング・ゴッフマンは次のように述べています。「どんな人々の集団であっても――それが囚人であれ,未開人であれ,飛行士であれ,患者であれ――,それに接近してみたならば,そこには有意味で道理的で正常な独自の生活が営まれていることを知るだろう」

 

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陥っているのだと解釈しているのです。「他者の不合理性」が強調されて,その裏側には「自己(=書き手)の合理性」が前提にされています。こうした「他者の不合理性」(と「自己の合理性」)を前提にした参与観察からは,調査者自らの「ものの捉え方」がバージョンアップされることがありません。調査以前より保持している「ものの捉え方」を投影しているだけなのです。だから,この手の調査には「調査をしたからわかったこと」が書かれていません。なぜなら,調査をせずともわかっていることを,自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞっているからです。その結果,問いが深められた形跡のない書き物ができあがるのです。

ただいま帰りました。
ソドーシラーソー
ソドーシラーソーミー