頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

奉納2

中学は丸三年、一度も校舎に通うことなく卒業した扱いになった。すべて自分の関さないところで話がすんでいた。母がオンライン塾システムの教材を使わせてくれたのでそれで自宅学習していた。母が強く干渉して要求したのは勉強のことくらい。あとは小言レベル。時々本当にこの人のことが可哀想になる。若い頃の話を聞いたりアルバムに写った幼い姿を見たりすると切なくなる。昔の母と今の母がつながっていてこの人が自分を産んだんだと思いを馳せると果てしない気持ちになって涙が出る。自分は一人の人の人生に強制介入して情や労力を食いつぶして台無しにしている。

この人に報いなければダメだと思って努力した。情や労力に値するようなまっとうな人間になりたいと思った。でも無理だった。無理をしなければそれは達成できないということが無理だった。無理するのまぢ無理。だいたいから義務感を抜きにすれば、まっとうな人間になんかなりたくなどなかった。いや、ちょっとはなりたかった。なんなら、憧れもした。それどころか、理想にさえした。でも自分はまっとうな人間なんかじゃないんです。ていうか母が僕に「まっとうな人間になってくれ」なんて要請したことはない。すべては僕の思い込み。まっとうでない自分はダメな自分だという思い込み。いつかどこかで少しずつ重なって作り上げられた思い込み。自分にかけた呪い。「ダメじゃなくありたい自分」が「ダメな自分」を虐待し続ける呪い。

母は言った、「人生どうとでもなるし、いくらでもやりようはある」「あなたはやればできる」、ありがとう、でも、僕のやりたいことは、厳罰と正確さで律された集団から一定の距離をとって保身を確保することだったんです。

僕は母を苦しめたくなかった。母は母で、僕が苦しむのを悲しんでいた。僕が苦しいのは、僕が母を苦しめているから。僕が自分で日銭を稼げず母に依存しているから。僕がまっとうじゃないから。この人を苦しめないためにまっとうな人間になろうと思った。でもそれは無理だった。努力ができないからだった。

一定期間は無理がきいて、無理がきいている間は努力は続くが、段々と負債がかさんでくる。そうしているとあるとき突然臨界点を超えてすべてが手につかなくなる。生きることをそのものを放棄して、それまで続けてきたものを根本から辞めるまで無気力が続く。無理をしている間は無理をしていることに無自覚でいる努力をしているので、臨界点を超えるまでなぜそうなったのかわからない。っていうのをこれまで何回もやってきたんだよな。

僕にとって努力とは、無理をすること。無理をすることとは、やりたくないことをやり続けること。やりたくないことをやり続けると気が狂うとわかった。だから努力は嫌いだし、やりたくないこともやり続けたくない。

じゃあやりたいことをやれよ

それがね、ないんすよね。やりたいことがねえんだよな

ないな~やりたいこと

やりたくないことをやらないということをやりたい

はいはい

 

なので気が狂わない範囲でやりたくないことをやり続けられる工夫をしてるんですね。今は。やらないと死ぬんで。

絶え間なく規則正しくってのがきつさの肝っぽくて。フリーターやりながらいろいろ試して、ちょっとずつわかってきた限界値がある。まず週休2日は無理。実働8時間もしんどい。休みは3日あるならギリギリ耐えられる。移動込みで8時間なら大丈夫。これなら規則正しくても臨界点超えずに動ける。これで余裕があるかないかという状態。フルタイムで週に5日働いたらすぐ臨界点超えるのは目に見えてる。だから無理はしない。高望みもしない。動ける範囲でだけ動く。本当に重要で必要なものだけ手に入るなら他は得られなくてもいい。無理をしてでも得たいものがあるなら別だけど、今のところない。いや、あったわ。親からの経済的自立だ。そしてそれはもう手に入った。よかったね。めでたしめでたし。

 

やりたいこと。

傷つけたり傷つけられたりするのが嫌だから避けたいっていう、赤面するくらいありきたりで実現不可能な欲求を捨てること。

避けるのは不可能。人としての構造自体に傷つける機能が組み込まれているから、臓器みたいに。それを避けることはできない。それを取り除くことはできない。

でも、本当にそうなのか?本当にそれは取り除けないのか?

無理だよ。例えばなにされても傷つかない無敵の状態になったとして。その無敵の状態である自分をひがんだり攻撃したくなったりする誰かはいる。攻撃は防衛の手段。守りたいと思う気持ちが攻撃を引き起こす。自分の主義を、信条を、大事ななにかを守りたがる。攻撃したい、守りたいと思ったということは、その誰かのなにかを無敵である自分は傷つけたんだ。その攻撃に無敵状態の自分が傷つかなくても、攻撃行為の目撃自体に傷つく別の誰かはいる、あるいはいうる。その人はなぜ無敵じゃないのか。なぜ攻撃に傷つきを感じるのか。それもまた守りたいと思うから。自分の主義を、信条を、大事ななにかを。誰の心からも、そういうものを守りたいという気持ちがなくなれば、傷つき傷つけられに関する機能は消える。でもそれは防衛の手段を捨てること。主義や信条や大事ななにかを捨てること。捨てられないだろう。仮に自分一人捨てることに成功しても、自分以外の全員が捨てなかったら、そこには傷つけ傷つけられの関係が成立し続ける。

でも、本当にそうか?逆に自分以外の全員なにかを守りたいという気持ちをもう捨てられていて、自分だけがなにかを守りたがってるんじゃないのか?

なにかってあれだな、自己愛だ

もうええわ、いつまでこの話しとんねん

いつもおもうけどなんでこんなに抽象的なんですかね。もっと具体的に考えらんねえのかと思うけど難しいね。具体性の中に、地に足ついたところにこそ自分が傷つけてきたものがあって、そこから逃げるための抽象という感じがする。これもまた逃避よ。ヤマアラシのアレから逃げるための思考。自分にこもってないで現実に生きろよ!他者の中によ。もっと現実の話しようぜ、他人の話をしよう……

やだ!

やだかぁ