頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

この後ろめたさや引け目はなんだろう。

卑屈。下手に出たくなる衝動の源。

もとをたどると自分の存在の迷惑さに行き着く。

迷惑。

僕はある肩書き、属性、意味付け、それをアイデンティティに組み込んでいる。言い訳の材料として。

不登校引きこもりニート

自分の立ち位置。それ自体はただそうだというだけの状態を表すけど、過去の語れなさ、共有しづらさ、自分自身を腫れ物みたい扱ってしまうのに引っかかりがあるというか。

でもこういう、過去を引き合いに出して、だから~できないとオチをつける。くよくよして、くよくよしたまま終わる。もういい、そういうの、うんざりするほどやった。

 

"みんな"が苦しんでる間ラクしてきたんじゃねえか、みたいな声を内部に作り出す。

実際そうなんじゃないかと思う。

苦しみを避けたかった。

だから苦しみから逃れず立ち向かい続けている人間に対して、後ろめたさがあるんだな。

全員、苦しみから逃れず立ち向かい続けている人間に見える。社会参画と経済活動を行なっている人は。

僕はなにも成し遂げなかった。ただ逃げただけ。今もまだ逃げてる。僕には中身がない。無駄な金食い虫。役に立たない。なにもないなら要らない。

云々。

そう責める。習性で。

責めてどうしたいんだ。

しかし事実だな、と思った。それを受けて、なにかを成し遂げなければならないのではないかと思った。逃げずに立ち向かうべきなのではと。"中身"を、人間性を磨くなにかが必要で、自分にはそれが欠けていると思った。役に立ち、与える側に回るべきだ。そのように思った。

だから、そうでない自分を後ろめたく思う。

そうでありたいなら、そうであれるよう気持ちを切り替えて実行に移せばいいと思った。できないなら、なぜできないのかを分析する。どうすればできるようになるのかをできるようになるまで試行錯誤する。

"居ていい人間"であらねば、存在を許容されない。だから弱音や甘言に溺れてはいられない。溺れればたちまちに立っていられなくなる。立ち続けなければならない。

頭ではそう思う。

でも、気持ちと理性が乖離する。

悲しい。

それは嫌だからだ。

ここにいたくなんかない。

誰の許可もいらない。

誰の許可も欲しくない。

許容されなくていい。

どうしたらいい?

どうすれば許可を求めずにいられるんだろう。

なぜここにいたくないんだろう。

どうすればそこにいたいと思えるようになるんだろう。

 

敵味方思考に陥ると、あらゆる他者から危害を加えられるのではないかという妄執に取り憑かれる。

本やインターネットで延々、他人の頭の中をのぞき見る。自分の思想に近い考えに触れると安心する。

僕もそう思う。同じ考えを共有してる。この人は僕に危害を加えることはない!

いいや、違うね。

ある考えを持っていることと、危害を加えるか加えないかはまったく次元の違う話だ。

考えや思想はひとつのパーツ。ひとつの種。

頭の中の庭にはあらゆる種から多種多様な思いが芽吹いている。完全に同じ形を持った庭はなく、同じ花もない。

そう。だからおもしろいんだ!

違いがないなんてつまらない。なぜ同質であることを求める?

安心のため?自分とまったく同じ存在であれば、自分に危害を加えることはないと思うから?

その仮定は真なのか?

そう思うよ、現実に存在しないけど。

自分とまったく同じつったって、自分の中にだって複数の思想が共存してるってことは、一個の完璧に同質な自分なんてものはなくて、異なる部分に分かれた他人、その総体としての自分があるわけで。

同質であることを求めるって人類補完計画やんけ。

でも傷つくの怖くないですか?

同質を求めるのもそれ以上にこえーよ。

なぜ関係を、被害と加害でしか捉えようとしないんだろう。

失敗し、傷つけ、取り返しのつかない損失を与えたくない。そのための危機意識としてその尺度を捨てることができないからだ。

加害者にも、被害者にもなりたくない。

被害者にならないことはできる。危害を危害だと思わなければいい。ある因子によってある結果、ある現象はただ起きる。痛みはただある。それだけだ。痛みを乗り越えることができる。そのような考え方を採用すればいい。

いやしてないじゃん。ばりばり怯えてるじゃん。危害を加えられたくないとか、この人は僕の味方じゃないとか。

そっすね。

仮定と理想と机上の空論、いつものやつだ。

いつものやつだなぁ。