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継続は力なりって言うじゃないですか。
言いたいことがないなら黙ってろとも言う。
沈黙は金、雄弁は銀。
自分の痛い部分に触れる気のない、痛覚の走ってない部分をいたわるようなやり方では、自分と向き合うことにはならない。それはただ誤魔化して慰めてやり過ごしてるだけじゃないのかと。本質的な部分に触れられないもどかしさ。触れてはならないという制約に抵抗したい。
言いたいことがない。その表現は正確じゃない。なにか言おうとして、それは言うべきじゃないと判断して、言わないでいる、それを繰り返した。自分の思考過程すべて、言うべきじゃないものとして処理し慣れていった。
そこから脱したかった。今は脱することができていると思える。昔に比べれば。
僕は書くことにすがっている。
書き続けているとカタルシスのようなものを得られるときがある。
自分の痛い部分に触れることができたとき。
膿があって、それをえぐることでしか自分を許せないという感覚がある。
痛みを感じていないならなにかやり方が違っているんだ!
痛みを感じていないと落ち着かない。
そういう感じ。
僕はその部分に触れ、見、感じることを強く求めているが、同時に避け、逃げ、遠のこうともしている。その葛藤がある。書くことで痛みに近づきたい。
いやもっと直接的な方法があるやん。
自分の内側にこもるのをやめろと思う。
傷つけ合うのを恐れる、とかなんとか。
自分の声を聞く。内的な指摘。内在化された他人の声。鋭く攻撃的。
結局プライドが高いだけじゃん。上品ぶって"よく"見られたいんじゃないの。"善い"自分でありたい、なぜなら攻撃されたくないから、なぜなら"善い"自分でないと認められないから。そういう気持ちが基盤にあって、だから臆病になるわけで。結果、卑屈さや臆病さ、それを言い訳にして、怠惰を大義名分に、そいつを理由に引っ張ってきて、正当化して、引きこもる。そういう姿勢に、嫌気が差す。
たいていただ自分の性質を欠点としてあげつらって終わる。
不毛だね。
不毛だ。