頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

僕は基本的に、言いたいことがなにもない。

少なくとも、とっさには出てこない。

ぼんやりしている。

感情の高ぶりがあると、感情の高ぶり~とか思って喋りたくなるけど、それは鳴き声みたいなもんだしな。思惟とか理屈とか、骨組みがあって肉付けされたなにかではない。

感想や疑問はないか促されたとき、思考にあるのは空白で、聞かれてから初めて考えをこねて作り出す、そんな感じ。考えるのは難しい。でも、時に楽しい。なので暇にかまけては考えるという娯楽で遊んでしまう。僕の思考は与太だよ。

 

なにかを見聞きする。そのままではただ見聞きしたと言うだけの状態で。そこになにを見出したか、というのが感想や疑問という形で現れる。平時はただ、自分は確かにこのように見聞きしたという意味の言葉を再変換してオウム返しするか、好きあるいは嫌いという意味の、鳴き声としての言葉を並べるかするばかり。口頭での会話で、こう考える、こうしたい、これってどうなの、みたいな、意見や理屈を述べることは、ほとんどと言っていいほどない。

なるほど。

僕が対人面で特に苦手としているのは、自分の意見や理屈を述べるやり取りだ。

でも、ある種の機械的・事務的な会話ではそれが全然平気でできる。なにが違うんだ。

えっと、目的があるからだ。ある状況を変えたいと思う動機。それで、どのように変えたいかという主張として考えを提示できる。あと、やり取り自体にフォーマットがあって、相手の人格に影響が及ばないっていうところに安心感を覚える。

主張ねえ。

僕は、意見や理屈を述べるという行為…自己主張と、自己主張によってある状況を変えうることができる、という感覚が強く結びついているために、表現とはある状況を変えることができる力を持つものなのだ、と思っているようだ。

そうじゃねんだよな。

表現。表現は、表現そのものが目的で、状況を変えることは目的に含まれてない。結果的に変化が起きることはある。でも、それを意図して表現するわけじゃない。変化を意図した表現は、それは自己表現っていうか、営業行為じゃないですか。営利を求めてる。僕は、表現にある特定の利益、ある特定の変化を求めるのが、なんか嫌だ。僕は単に表現をしたいのであって、営業はしたくないんすよ。

でも、表現するって行為自体が、今までなかったものがそこに生まれ出てくるってことで、それ自体ですでに変化を体現してて。表現はそれそのものが変質を促す性質を持つんだから、もうそれは、表現によってなんらかの変化が生じることは、受け入れるしかない。でも、どのように変化するかはわからない。だから、でも、それでいい。表現をしたってことが、僕にとっては重要なんだ。