頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

言い訳。不自然なぎこちなさ。意地。緊張。予防線。

それらはすべて根を同じにしている気がする。

動機は覆い隠すことだ。自分のもろい部分を守りたい。

そこを無理に取り繕おうとするとき起きる。

脆弱性対策として、脆弱性自体を隠す、ないことにする、見ないふりをするって一番用をなしてないと思うけど。

 

「できなさ」を隠そうとして、言い訳的になる?

「できない」自分は「ダメ」な自分だ。「間違って」いて「悪」で「許されない」。

許されないけど、許して欲しい。間違いを取り消せないとしても、償いたい。悪であることを責められたくない。云々。

できないのは「ダメ」か。

今の僕はそう思わない。

「できない」は単なる状態だ。

「できない」はただそれを「できない」というだけのことで、それ以上でも以下でもない。

ダメとか悪とか間違いというのはひとつの眼鏡。ひとつのものの見方。対象に優劣、上下をつけるための、便宜上の価値判断だ。

僕はその眼鏡をはずしたい。

劣っていて下等な自分は許せないか?

今の僕は許せる。

物事に下等も上等もない。

ただ個人的な好みが、好き嫌いだけがある。

自分が好きなものを上等だと褒めそやすのは、自分が嫌いなものを劣っていて下等だと見下す働きと連動している。

僕は自分がなにかを見下すとき本当に自分を嫌いになる。

そして、見下す自分を嫌いになるような自分を嫌いになる。

見下せばいいんだ。見下すことのなにが「ダメ」なんだ。認めればいい。素直に。自然に。それを好きだと、それを嫌いだと言えばいい。なぜそれもできないんだ?

そうやってまた「できない」自分を責めたりする。

そうじゃない。そんなことがしたいんじゃない。僕は誰も責めたくはない。それは自分に対しても同じだ。したくないことをしてしまう。それは衝動だ。衝動。空腹を感じて満腹を求める、眠気を感じて熟睡を求める、性欲を感じて絶頂を求める、それと同列だ。野蛮だよ。衝動を人に向けるわけにはいかない。人に求めても解決しない。すべて自分の中で起きている現象なんだから、解決してやれるのも自分自身の力でしかない。自分で自分の面倒を見るんだ。満腹になるためには、食べ物を得なければならない。空腹を感じ続けているだけじゃ、餓え死にだ。食べる物を得なければ。自ら探し求めて、食料を見つけ、手に取り食べなければ。「探す」「見つける」「食べる」だ。できない自分を責め、攻撃するだけじゃ、できる自分は手に入らない。同じことだ。学んだんだ。「体験する」「再現する」「理解する」だ。

 

探す見つける食べる。狩猟採集前提?農耕牧畜しないの?「たがやす」「収穫」「食べる」でいこう、たがやそうぜ。

なにをだよ。

魂。

 

罪悪感を持った自分。

罪を責める自分。

怠惰な自分。

怠惰を肯定する自分。

が、ぐちゃぐちゃになって襲ってくる。

それらを総括的に眺めたり取りまとめようと苦心する自分。

総括的に眺めようとする過程で狂ってしまう自分。

人間単位、人生単位、集団単位、歴史、地球、星、銀河、宇宙単位で見たとき、この一連の運動の、薄く軽く無に等しい些末なこと加減。に安堵する。笑える。小さすぎて笑える。すべて投げ出せる。この広大さの前に自分の矮小さなど取るに足らない。なにをしてもしなくても同じだ。だったらなにをしてもいい。なにもしなくてもいい。

とかいって究極無法者になれたら無敵なのに、法とか生活って重力がでけえんで、せめて気分だけでも圧から解放させたいよ。無敵気分で生きたいですね。実際、敵なんかいない。どこにもいない。誰も敵じゃない。