頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

根暗論

昔、人に言われた言葉を何度も噛み締めている。

「君は物事の暗い、影の部分に注目しすぎる。その癖がある」

図解説明つきで。

言われてから10年近く経ったのに、相変わらずその癖は抜けていない。と思う。当時も、そうだね、確かにね、と思って受け止めていた。その人は僕に、影以外の部分もあることを知るように、見るように促した。僕はそうしたいと思った。そして自分に影ばかり見る癖があるのは"よくない"状態だとずっと思っていた。いつか変わるんだろうかと思いながら過ごしてきた。べつに変わらなかった。変わったのは、その癖が"いい"とか"悪い"とか抜きに、ただ単に"そう"であるだけ、そういう性質は存在している、という感覚が身についたこと、それが腑に落ちたことくらいだった。消そうと思って消えるものじゃなかった、ということがわかっただけだ。

最近になって、また似たような指摘を受けた。

「ネガティブなほうにばかり考えるのじゃなく、意識的に明るい面も取り入れて考える癖をつけてみたらどうだろう?」

そうだよな、と思った。

明るさと暗さの違い。

僕は、よく、気分が落ち込む。それで、ひどく、憂鬱になって、しばしば身動きが取れなくなる。

気分が落ち込むようなことを考えるのは暗いことで、気分が高まるようなことを考えるのが明るいことなんだろうか。

気分が落ち込むようなことばかり考えるから、身動きが取れなくなるのだろうか。

でも、暗いことばかり考え続けているうちに、ある瞬間ふいに全神経が興奮して、天啓を受けたようにはしゃいだ気分になることもある。それに、なにもずっと落ち込み続けてるわけじゃない。

だいたい自分で考えるのをやめることができない。それはコントロールできない。いや、止められはするけど、止めた瞬間不安になる。とても危険な状態だ、と思う。それは丸裸な状態だ。考えることは、鎧を身に着けるように一種の防衛手段なんだ。あるいは、中毒。依存。考えないと不安だ。判断をしなければならない、と思う。判断をするためには合理的かつ論理的な思考が不可欠だ、と思い込んでいる。なんだそりゃ。そのわりに僕の行動はちっとも合理的でも論理的でもない。いつでもいきあたりばったりだし、考えなしだし、感情的だし、自分を追い詰める方向に差し向けるような行動を取ったりする。考えようが考えまいが、結局そうなんだったら、じゃあ考えないほうがマシなんじゃないのか、気分の落ち込みにとらわれて身動きが取れなくなるなるくらいなら、と思う。

そうであるならだ。物事を明るく考えようと努力するのも同じことなんじゃないか。考えるって行為自体が自分を窮屈にさせるのなら、無理に努力して明るく考えようとすることだって、自分を窮屈にさせるだろう。そうなら、そんな努力はできないし、したくない。

でも、と思う。そうじゃない。

物事の明るい面を取り入れようとすることは、僕にとって無理でも、努力でもない。気分が高まるようなことを考えようとするのは自然なことだ。考えるという行為は自然な行動なんだ。僕はずっと、救われたがっていて、助かりたがっている。生きたがっている。それで必死になっている。必死さのあまり、あれこれ考える。なぜなら、考えないのは危険だと思い込んでいるから。そういう自分はすごく人間らしいし、単なる命、単なる宇宙の一部という感じがして、笑えるし、可愛らしい。そこにある欲求、生きたい、助かりたいという欲求は、自我を介していないから。でも、自我が欲求達成の邪魔をする。考えることは、思想や社会通念や固定観念に意識を張り巡らせることで構成されている。そういったものに意識を張り巡らせずに、そいつを通さずに物事を見つめること。それが明るさなんじゃないのかと思う。明るさ。僕にとっての明るさ。

それはとても非現実的な設定な気がしてならないけど。

 

考えないのは怖い。自分の視点、"考え"は、死角や隙間に満ちている。それは弱点で、弱点を突かれるのは危険だ。弱みを見せるのは危ないことだ。だから怖い。とかなんとか。

そうか、なら受け入れようじゃないか。

僕は、自分の死角を恐れている。そのために死角を埋めようと思考を巡らせる。

ところが、死角は死角なので、常に背後にある。そいつを見ようとするのは、自分のしっぽを追いかけてくるくる回る犬と同じ。

その仕組みがどうなっているのかは知らないけど、死角を埋めるのが得意な人間、多角的な視点からの理解を容易にこなす人間はいる。

でも、僕はそうじゃない。そうじゃないんだ。

それをわかってれば十分だ。

僕は、僕の視点、僕の視界からしか物事を捉えられない。

要するにバカだし、愚かなんだ。それはもう、すべての前提だよ。

だから、自分がバカで愚かであることで、自分を責めなくていい。

だってそれは、そうであるというだけなんだから。

そこに善も悪もないんだから。

 

 

 

物事を悲観的に見るか楽観的に見るかという違いの話がしたかったのに、思考をするかしないかとかいう話題にずれてるし、それに気付いていたのに軌道修正しないまま投げやりになった。

自己陶酔がすぎるね。

そうなの。自己陶酔大好きなの。

結局、ニヒリスティックに、アイロニックに、悲観的に、斜に構えて、あれこれ捉えるのが、単にパーツとして好みなんじゃないのか。そうである自分を好きだから。

そうかもしれない。たぶんそうなんだろうな。

いや違うな。そうでない自分を信用してないんだよ。楽観的で奔放で鈍感で幼稚なふりをすることにうんざりする。だってそれは嘘じゃないか。

どうして嘘なの。

マジで現実を見てたらそんなふうに楽観的に振る舞えるのは、痛覚を麻痺させてるか、都合の悪いものを見ないふりしてるだけだからだ。

現実ってなんだよ。

悲観的に見ざるを得ない現状のこと。

違う。現状は単に現状に過ぎない。そこに悲観の色を乗せているのは自分自身だ。

じゃ、楽観の色を乗せるのも自分自身だ。

そうだよ。だからどっちを乗せてもいいじゃないかという話なんだ。悲観的な部分にこだわるのは、それがこだわりだからだ。好みのパーツだからだ。都合の悪いものを見ないふりすることだけが楽観の姿勢なんじゃない。悲観の先にあるのが楽観だと、そう思う。悲観の先、都合の悪いものの先に、それでもなお救いを求めようとする姿勢が。それが明るさ。

なに?救済を求めるのが楽観?

僕にとって救いってのは、諦めることなんだよ。いったんすべて受け入れることだ。飲み込むこと。だから、悲観をひっくるめて楽観なんだ。

 

まどろっこしいな。つまり、こう言いたいわけだ。僕は見ないふりをする自分が嫌いだ。悲観は、自分にとって不都合なものを無視しがちな楽観よりもマシな姿勢だと思う、だから悲観を好む。でもそうじゃない。自分にとって不都合なものを無視しがちなのは、悲観的な姿勢にも同じことが言える。悲観的視点からすれば、楽観的視点は不都合というわけだ。だから、悲観にだけ偏るのも、また楽観にだけ偏るのも嘘だと思う。どちらも自分の中には両立し得るから。なら、片方だけ見ないふりしてやり過ごすのは、全然フェアじゃない。だから、どちらかにだけ偏っているときの自分を批判する。両方を見ろと言いたくなる。そして、僕は悲観的な自分に固執する。自分の"根暗"的な部分にしがみつく。だからそういう自分を意識の俎上に載せて解体したがった。

それだけの話だった。

 

僕は現実的な問題を無視しすぎだ。

思想や社会通念や固定観念を受け入れたがっていないからだと思う。

そこに根ざしたところに生きているのにそれを見ないふりしながら生きるのは嘘だしクソだ。

見ないふりをしてるつもりはない……逃げたり隠れたりはしているけど、あくまでなにから逃げたり隠れたりしているかは自覚した上でそうしているつもりだ。

でも、常になにか見落としてるという感覚がある。

それが死角なんだ。

それが自分にとっての、見たくない、不都合なものなんだ。

そいつを見ないといけない。