免疫としての嫌悪、名前
嫌悪や拒絶の力。
僕は女装はもちろん、男装も嫌いで、それらを避けたいと思っていた。
意義を見いだせない労働や、人、特に集団との過剰な干渉も、嫌いだし避けたいと思っていた。
嫌悪や拒絶の力はどこから湧いてくるのだろう。
僕はいつからそれらを嫌いなんだろう。
たとえばそれらをまったく意に介さない人はいる。その人と僕とはなにが違っているのだろう。
僕はなぜ執拗に嫌悪と拒絶の力に執着し、嫌い、避け続けようとするそのことに、力を注ぎ熱心になるのだろう。
それを受け入れても構わないわけだ。意に介さないでいてもいい。
もちろん、嫌い、避けてもいい。
でも、嫌い、避けることを決めた理由は?
嫌い、避けたいと思っているものを自分の中に受け入れること。それと一体になること、それを内在化すること。それは、僕にとって、死に等しい危機意識を感じる行為だったから。気味が悪く、不気味で、総毛立ち、そうである自分を、想像しただけでえずいてしまう。そのような危険から遠ざかりたい、危険を感じていたくないから、嫌い、遠ざけようとした。
なぜ危機意識を感じるんだろう。
自分の喪失を恐れるんだろうか。
今そこにある自分。今そこにいる自分の変質を。
だとしたら、どうでもいい。
僕は、今そこにいる自分の固着にこだわっていたいわけじゃない。
ただ感じ、体感していたいだけだ。自分を定義し、固定化し、唯一無二の特別ななにかであるための名前がほしいわけじゃない。
名前などいらない。
僕は、名前を捨てるために、名前にこだわらないために、次々に名前を変えよう。毎秒、新しい名がつき、消えていく。毎秒生まれ、死んでいく。
死に等しい危機意識を避けることは、死を拒むことだ。死を拒めば、新しい名は持てず、生まれず、毎秒死に怯え、死を恐れ続けることを原動力に名前にすがる。僕は名前にすがってきたし、すがりたがっていた。それがないと生きていけないような気がしていた。逆だ。名前にすがることで、死を拒むことで、同時に生きることも拒んでいた。死ぬことも生きることも拒んだ。そして動けなくなった。
名前は食料であり、衣服であり、住居であるが、それらは自分ではない。名前は自分自身じゃない。名前は生存を助けてくれるが、生存を助けてくれるものが自分自身なんじゃない。
僕はこれからも名前を使うだろう。でもそれは、生存のために利用するのであって、決して名前が自分のものだから、自分自身だから使うのではない。