頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

意志と期待の違い

期待とは、夢を見ることだ。「こうであったらいいのに」という理想を見つめること。理想を作り上げること。

僕は自分が期待を持つことを憎む。

期待は怒りと同情を生む。

怒りは暴力や拷問、復讐を生む。

同情は自己憐憫と自己嫌悪とを生む。

期待を叶えるぞ。努力するぞ。期待が叶ったぞ。ああ満足した、さあ次だ。次の期待を。次の達成を。もっともっと叶えるぞ。ってか。

欲望につぐ欲望。それはどこで足るを知るんだろう。僕は欲望の達成のために生きているんだろうか。それを志すことが人生の目的なんだろうか。

期待が、欲望が満たされたとき確かに満足を感じる。一時的にでも、満たされる。そうしてしばらくすると、また飢える。また欠乏を補いたくなる。欲望は止むことを知らない。生きている限り欲望は生成され続ける。それは栄養に、血肉になるらしい。飢えに苦しみ、飢えが満たされるためならなんでもやる。欲望の達成には、犠牲を払う。優先順位を設定し、下位のものは切り捨て、殺す。概して、自己正当化がともなう。この期待を達成するためには殺しも仕方なかった、止むを得なかった。誰かを苦しめ、痛めつけ、奪い、ひどい目に合わせてでも、自分の欲望のほうが自分にとっては重要だからと。

期待が達成されなかったとき、裏切られたときはどうだろう。そんな状態にある人間はごまんといる。10人いたら10人が不満を抱え込んでいる。期待が叶わないという不満。叶うのが当然だという前提があるから、前提を崩されると混乱し、怒り狂う。期待が叶わないのはおかしい、間違っている、異常だといって責めさいなむ。あるいは、嘆き悲しみ、身を縮こまらせる、その形に合わせて自分を小さく畳んでしまい込む。失望する、「期待が叶っていない」と、今そこにある「期待が叶っていない」現象、感覚体、自分を否認する。自己否認は循環する。それは円を描いて回り続ける。

そんなのの繰り返しにうんざりする。

僕は、暴力を、拷問を、復讐を、自己憐憫を、自己嫌悪を、期待と失望の無限回廊を憎む。こうであったらいいなんて思うものを、ひとつだって持ちたくはない。また、誰の期待をも共有したくはない。共感に警戒する。僕はなにも望まない。なにも欲しくはない。なにも持ちたくない。

なににも期待しないで生きるなんて可能なの?だってそれは欲望の欠損だよ。生きたいという欲がなければ死んでしまうことになるじゃないか。

いいや、そうはならない。生きたいという欲が、期待あるから生きているわけじゃない。もうすでに生きているから生きているんだ。「ただそうだった」。「ただそうでしかなかった」。それは期待があってそうだったわけじゃない。生きるという選択を、決めていたから生きていた。消極的、消去法的であったとしても。選んでいる。選ぶこと。選択。決意するということ、意志すること、すでに心に決めているということは、期待とは違う。だってそれはただあるものだから。今そこにあるものだから。期待のように、先のこと、未来のことに恍惚と見とれて、上の空になっている状態とは違う。今目の前にあるものを感じている状態だ。

僕はまだ期待を持っている。「期待を持ちたくない」という形の期待を。

決意をした。意志を持った。期待を持たないという意志を。そのために苦しんだ。そのために怒った。そのために傷つき、犠牲を払った。でも、それは叶わなかった。だから、諦めた。それで、だから、そいつを受け入れた。期待を持ち続ける自分を。

僕は期待を持つだろう。それは変わらないことなんだろう。でも、今日、今、僕は選ぶ。僕は決定をする。自分がなにを選ぶかを選ぶことを決定する。それは未来を夢見ること、今ここにある自分を否認することとは違う。今ここにある自分を受け入れ、認め、目の前に空いた暗い穴に、勇気と笑いを持って、そいつをかみしめて飛び込んでいく、そうやって生きることだと思うから。

「する」と思ったときにはもう決まっている。行動より先に言葉が出てくることはない。

選択が先で、言葉はあとからついてくる。

決定が先で、思考はあとからついてくる。

なんかあれ、プロシュート兄貴が似たようなこと言ってたな。

 

僕の一番でかい期待は、自分の中の選択基準を潤沢にしていたかったというものだ。

基準に縛られること、禁則を作り出すこと、基準に従うことを拒んだ。拒んだ結果、自らを基準で縛り、禁則にこだわり、基準に従う機械と化すよう導いた。

反抗は、抗おうとしたものを自らの内に取り込むことで、内在化された反抗対象を受け入れることによって達成された。そいつを認めざるを得ないという感覚を体得する形で。