■
なんか一個思うのは、誰にも注目されていない、誰からも特別視されていない、誰も自分を重要だとは考えていないということの安心感みたいなもの、それがないと緊張の鎖に繋がれたままなんだろうと。
この「誰か」は他人のことだけを言ってるわけじゃない。「誰か」のうちには自分自身も含まれる。
自分が自分に注目して、特別視して、重要だと思ってるから、自分に対して期待して、緊張する。
僕の体は期待に対して緊張で応えるよう順応している。
注目や特別視にも種類がある。
自分から見て対象がより優れているか、好ましいか、「選ぶ」に値するか、ある基準に沿っているか。そういう視線、つまり判断や評価を下すため視線と。
ただそこにいることを認めて、それ以上でもそれ以下でもない、ただそこにいるということを見るだけの、意識の視線。
前者、評価の視線に僕は怯え、後者、意識の視線に僕は歓喜する。
評価の視線を念頭に置いていると身動きが取れなくなり、意識の視線を念頭に置いていると踊るように駆け回れる。
僕は評価の視線にとらわれる自分に自己嫌悪する。
そいつでがんじがらめになって、"自意識過剰"になって、挙動不審になって周りが見えなくなって愚鈍になってうろたえて気落ちして動けなくなる自分に。
そいつにとらわれているとき、僕は意識の視線を認識の外に追いやっている。ただひとつ評価の視線にだけ注目を注いでいる。そうじゃなく、意識の視線こそを認識の内に招き入れたいのに。
評価の視線にさらされるとき、僕は自分を恥じ、萎縮し、申し訳なさがり、自分を低く演出し、見積もり、罪の意識と居たたまれなさと、自分は相手に報いることができないという観念に取り憑かれる。相手に報いないような自分が自由闊達に動き回ることは「礼儀にかなってない」と感じる。
評価に能わず、「がっかり」されると、自分にはもう相手にとっての価値はなく、価値がないなら、ただ邪魔なだけだという結論に達する。
自分が「邪魔」であり「迷惑」であることに怯える。
「人の嫌がることはしないようにしましょう」「他人に迷惑をかけてはいけません」「失礼のないようにするべきです」
無理だよ。
じゃあお前、僕はお前に「がっかりされる」のが嫌で迷惑で失礼だと感じるから、二度と僕に「がっかり」したりするなよ、「がっかり」に至る僕への期待も評価の規定も嫌悪も好意も持つなよ。
無理でしょ。
え、できる?そんなに興味ないから期待もしてないし従ってがっかりにも至らない?
じゃあその興味ないっていう態度、これ嫌だし迷惑だから禁止な。
あ、でも強制力から無理に興味持たれるのも嫌だし迷惑だからそれも禁止。
おっと、そもそも興味持たれること自体も嫌で迷惑だから禁止。
きりがないんだよ。誰がなにを嫌で迷惑だと思っているかなんてわからないし、人の数だけ好き嫌いはあって。それを逐一自分に禁じてたらそりゃ身動き取れなくなるよ。
でもなんと、はじめから人と関わりを持たなかったら全部の禁止を遂行できるのです!
だから人と関わりたくないという解が出てくる。
ていうか人の期待に沿おうとしなきゃいいじゃん。
なんでそういう発想になってしまうんだろう。
自分が自分に期待するからだよ。
自分の期待に沿おうとする延長線上に他人の期待に応えようとする気持ちもある。
そうかもね。
いや。ていうか「人の期待に沿う」ことが社会的要請だからっすよ。邪魔になるな、迷惑をかけるな、役に立て、有能であれ。それが期待されている。そして多くの人々はその期待を共有している。従ってその評価の視線に常にさらされることになる。という思い込みにとらわれるようになる。
「多くの人々」ってなんだよ。
人間の最小単位を複数として見てるのおかしいよね。
一対一の個対個を基本単位としてとらえていたいです僕は。