頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

12月。ブログはじめた直後はどかどかと言葉を、暴力のように振るい、書くことは快感に等しかったんだけど、もはや筆は重く。

もっと力を抜いて、なにも考えずに、初心に帰ろう。

深く考えたり、頭で判断しようとしたり、「よりよくあろう」と志すことで、行動は鈍る。

熟考や理解を経ての判断すべてが僕にとって邪魔というわけじゃない。ただその要素が「行動を起こす」という一点において、巨大な枷になりがちだというだけなんだ。

それはなんで?

「よりよく」ってなに?

わからない。僕にとってより好ましい状態とは、自分を偽らず魂から全身で感覚を叫ぶことができている状態だ。その絶叫状態が「よさ」なんだとしたら、今はそこから離れたところにいる。

なんでもいいや。

考察は書き終わったあとの自分が好きにやってくれ。

僕は書き散らすだけだ。

そう、書き散らしたい。

頭の中身を全部ぶちまけてすっきりしたいんだよっ。

 

今週もハロワ行ってきた。いつもの担当職員氏と話す。バイト結構続いてるって近況を報告。からの、でも月10万じゃ少ないでしょ?もっと条件いい別の仕事探そ!からの、はい植物園の求人、紹介状作ったから履歴書書いて送ってね、コピーも取ってね今度添削するから。つって。僕はただ質問に対して自分の気持ちや考えを喋ってるだけで、あとはマニュアルでもあるのか、でもその素振りを感じさせない自然さで、さくさくと僕の将来や進路に進言してくる担当職員氏に強引さに乗っかってるだけ。強引だよ。とはいえずっと今の仕事続けるのしんどいとは思ってて、別の仕事試すだけ試したいなと、せっかくなんでってことでその強引さに乗っかった。K氏が予備校紹介してくれた時も同じ心情だった。世話焼いてくれるなら、じゃあ身を任せてみるか、みたいな。変なとこ強情なのに変なとこ芯がねえんだよ僕は。職員氏が提示してくれた求人、週休二日のフルタイムなんだけど、いけんのこれ?今の5時間勤務でもはぁはぁ言ってんのに。でも週休二日なのは今のとこと条件同じだし、違うのは移動時間と拘束時間3時間伸びるくらいだし、いけんのちゃうか、しらんけど。もう今、体感が麻痺ってて、疲れてるのか疲れてないのかわかんねえの。完全にこれまでとまったく異なる生活リズムで日常を送っているんだが、ブランクのわりにビビるほどの異常が身体に現れたり、とかも別になく、こんなもんか、と思いつつ、特にケアしたりとかもなく放っている。疲れてはいると思う。異様に眠い。睡眠時間は間違いなく減ってるし。頭がしゃっきりする瞬間がなく、絶えずぼーっとしてる。なにかを、自分の中に捕まえようとして、前なら捕まえられた手触りのものが指の隙間から逃げていく、そういう感覚がある。ああそれは前からそう?

今の職場、別に悪くないところだとは思う。ただ、密にコミュニケーションを取らないと居づらいのがひたすらにきつい。積極的に話しかけたり、話しかけ合うのが自然な状態に持っていかないと、居づらい。なのに、僕は消極的だし話しかけること自体を常時イレギュラーに感じてるから、プレッシャーが半端ない。とかいって勝手に感じてるだけですけどそのプレッシャーは。話すのが苦手なら話さないと決めて話さなきゃいいんだ。良識のある人々のやることは、せいぜいが嫌いつつ表面上はそつなく装うか、変な奴認識どまりだろう。別に仕事してれば文句は言われないんだから、目に見えて暴力振るわれたり村八分にされたりはしないんじゃないか。わかんないけど。でも、そういう危険性がある行動、イヂメられたりムラハチにされたりみたいなのを避けたい、と思う気持ちが強いせいで、コミュニケーション積極的にとらないと!という強迫観念に襲われてはいると思う。あああ、すでに出来上がってる関係の中で、噂話のネタにされてるのかと思うと、それがどんな内容であろうと、噂話!本当におぞけがする。僕に興味関心を持つな。仕事道具の奴隷として見てくれ。僕はそう振る舞ってる。

コミュニケーションを必要とされる?けどそんなん、どこに行ったって同じだろう。だったら……。

だったら?

だったら……諦めるか、挑むしかない。

僕には、でも、諦める勇気も、挑む度胸もなく、ただもじもじと口ごもった受け答えをするので精一杯で、それが、その行為が、いかにもダサくて、いかにもみじめな気持ちに、自分を追いやる。

ハロワのカウンセリングで僕は、なにも包み隠さず、ありのまま正直に、身も蓋もなく弱点をさらけ出す。そうしていられるのは、担当職員氏が僕の弱みを、同時に強みも、とにかく僕の性質というデータを把握したいと考えていて、なぜならそのデータをもとに職をあてがうのが仕事だからで、職員氏が僕に対してある種の役割や目的を持って接してくるから、だと思う。そして、僕はその期待に応えるものを持ってる。僕の性質のデータを僕は提示できる。僕が正確なデータを提示すればするだけ僕の性質に合致した情報を探し、与えようとしてくれる。職員氏が必要としている理由は、個人的な興味や好悪の対象として観察することではなく、あくまでも職の斡旋が目的だ。少なくとも自分が、職員氏が僕と接することをそう認識している、と思い込むことによって、多少リラックスして振る舞える。相手の求めているものがはっきりしていて、それを僕が提示したいと思っているし、できるという状況でなら、過剰な緊張は生まれない。

同僚の人々とのコミュニケーションにもその考え方を応用できそうなはずだが、なぜそっちでそう考えることは難しいんだ?

目的が、「円滑な人間関係の構築」にあるからだな。

スムーズなやり取りを行なえることがゴール。でも、「円滑な関係」において、自分をさらけ出すことは"たしなめられ"たり、白い目で見られたり、非難の対象、「知りたくない」ものとして扱われる。という想定が自分の中で出来上がってる。嫌われることだけを恐れてるわけじゃない。好かれることにも怯えている。過剰に持ち上げられたり、都合のいいように解釈されて好感を持たれたり、そんなのなにも嬉しくない。

でも……それは僕自身だって他人に向かってやっていないわけじゃないのに?

一方で本当に円滑な関係は、お互いの性質を裁かず「知る」ことでしか成り立たないと、僕は知っている。

緊張、怯えの正体は、期待だ。コイツらは僕を裁くし、知りたいとも思ってないだろう、と勝手に決めつけてる。裁かず「知って」ほしい、という期待。それが裏切られるという想像からくる怯え。