頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

日記

地下鉄駅の地上出口を抜けると、ひたいに一滴雨粒。いつも必ず待つ信号が青だった。高級な制服を着用した小学生が、同級生と会話。取材の受け答えに応じる業界人じみた口調。証明写真の撮影ボックス。ピンクのカーテンの前に壮年の女が一人。白いコート。目があったと思った。少しもあってはいなかった。

駅前のアナウンスで、なぜかエンヤがかかっている。

ポニーテール。手の中の空のペットボトル、丸めたチリ紙。ユメカワカラーの靴と鞄。ジャンパーを羽織る背中。ハンドルに視線を落としながら三輪車を走らせる女児。ギンギラ銀のハンドバッグ。片手離しの原付き。チャイルドシート付き自転車を漕ぐマスクの男。大学生の集団。「疲れたあ」声変わりを迎えたばかりの少年のような声。英検アカデミー。歯科。眼科。不動産。コンビニ。梅の花の木。満開の真下に広がるささやかな絨毯。その立ち姿を照らすノッポの街灯。美容室のウィンドウに70年代風のカットイラスト。室外機。間引かれた木の幹から伸びる幾本もの力強い新芽。

なにか落ちてる。マッチ箱。黄色な塗りに赤い英字。振ると中身はぎっしり。足元に一本の燃え殻。落ちているのはマッチ棒だけ。なにを燃やしたのだろう。箱をパチる。

足繁くスーパーへ。ある人は酒。別の人は珈琲。または煙草。賭博。性行為。大麻。僕は砂糖。ヨーグルト味のカップアイス。さくら味の豆乳。不味い。甘すぎて頭痛。

空き瓶にろうそくを挿す。マッチを擦る。火が燃えるのを見てる。瓶を透かす熱、その透明な影が机に落ちる。僕の体、その動きが風を生み、影と炎がゆれる。頭の中で、火事の予期に怯えた母親が大騒ぎする。炎はなめらかな形を、伸びるように、伸ばすように描き、描き続ける。火が燃えるのを見てる。一点に絞られた、焼け焦げる熱の塊。殺意の子供。 

インターネット様曰く。薬物、感染症ジェンダー。うるせえうるせえ。目を塞ぎタイムトラベル。10年モノのテキストサイト、ログを発掘しひたすら読む。スヰス。

きさらぎ

退職届、出してしばらく経つけど、まあ次のあてないんですけどねアハハとか言ってたらせっかく仕事覚えて戦力になったところなのにもったいないし、退職撤回していいからせめて決まるまで居たらと引き止められて、それもそうっすねとおもって、撤回してまだ今のところで働いています、なにをやってんでしょうか。言動ふわふわすぎ優柔不断すぎ。はい。別の仕事、と思い、ハローワーク、ネットのバイト求人などを眺め、唯一ここよさげダナーと思ったところに応募し、面接に行き、順当に落ち、振り出しに戻ったりしていた。退職届出したときも辞めたあとどうするのって聞かれまくったけど考えてねーー。なんかいろいろ試したり経験してみたいとは思ってますがとか口では言ってるけど全然まったくどうでもいい、早く人生を終わらせたいという気持ちが強い。つらい。どうでもいいとか言ってるのにどうでもよくないから身動きとれないわけですが。なんなのかな本当に。ほんまにどうでもええならどうにかせえよ。どうにかってなんだろう。どうなりたいんでしょうか。いじられるの怖いです。いじめられるの怖い。偏見の目で見られるの怖い!怒られの発生怖い!僕はテレビなどで見られるようなバラエティ的な出来事のすべてを恐れていると思います。バラエティ的な人格の扱い。バラエティ的な人とのつながり。漠然とした具体性のない不信感が消えない。内容の判然としない未来のぼやけた輪郭、想像の産物に萎縮してる。

今の職場は謎の圧力と謎の緊張感と謎の居心地の悪さはあるけど、一撃必殺の致命的な耐えられなさじゃないからなんかじわじわ…惰性で続けられるところにまで持っていけた。一年続いているのですごい。すごいすごーい!でも蝕まれている感もすごい。労働、働いている人同士で個人的な会話が発生する瞬間が一番嫌まである。避けたくてたまらないです。あなたの人間性とか知りたくない、だから僕の人間性にも構わないでくれ、人間性を仕事に絡めるのをやめよう、お互い歯車の一部として接して歯車の一部として完結しよう。以上。ダメ?僕はあくまで歯車としてそこに居るつもりで、用があるのは金なんです。金無しで生活が成り立つなら今すぐここから降りたいと思ってるんです。あなたがたも僕と関係ないところで幸せに暮らしていてほしい。僕と関係ないところで!システマティックに扱うなら最後までシステムとして扱って、中途半端に人間扱いする素振りみせないでくださいよ。求めてないんだよ。じゃあなに?もっとより機械の部品みたいに扱われるところなら僕は納得いくんでしょうか?いいや、そうなったらそうなったで大文句を垂れるに違いない。欲張りめ。歯車、人材、市場価値。そういうの前提で求められてる空間、それが労働市場で、それと割り切ってそこに居るのに、突然「個」として振る舞わないといけない場面が出てくるのがきつい。他の人がなんでもないことのように「個」として振る舞っているのを見ていると、危機感と羨望と嫌悪感を感じる。そんな風に安易に自分の内側をさらすなんて無防備だよ…危ないよ!でも、それこそが僕がもっとも望み、欲している状態だと自覚している。無防備。無抵抗であること。この人たちの…抵抗なく公的な場所で私的な自分として振る舞えるその切り替えのうまさ、その明るさ器用さ逞しさ。どうして違和感や恐怖を感じずに居られるんだろうか?神経どうなってる?ていうか僕の神経がどうなっているんだよ。なんで僕はいちいち違和感や恐怖を感じるんでしょうか。でもいい!こんなこと気にするのはもう十分。十分気にした。十分気に病んだんだよ。わかってるよ。僕がわかってるって言うときはたいていわかっていないときですが。

 

言いたいことが尽きちゃったよ。定期的に尽きてます。なにか僕は自分の人生譚を、感情録を、詰まった小石をほじくり出すように吐き出して語らないと、腹が張ってしかたがないと思ってずっと膿んでいた。でもそれも薄れた。その必要性、逼迫感が。

逃げ出したいと思う。でも、どこへ行っても同じだと思う。どうしてどこへ行っても同じなんだろうか。それはどこへ行っても自我が同じで、同じものが憑いてまわるから。また同じ欲求、また同じ質問、また同じ答え。不毛な再帰

いよいよ頭の鈍りが著しくなってきている。もうなにもわからない。繰り返し唱えてきた。わからない。わからないという暗示を自分にかけ続けているからなのか本当にわからないからわからないのか。なにがわからないのかわからない。なんだっけ?最近ずっとこんな感じ。最近?最近ではないな…。なんだっけ。

 

先月に一度休みを取って実家に帰った。海の近い田舎、広くてひと気のない広い公園、渡り鳥や、動物園の発する気配など、懐かしかった。ビルがないと空が広大でいいや。僕は都会にそんなに思い入れないみたいだ。交通の便がいいとか言って、狭い範囲、限られた定点を往復してるだけだし、全然都会の都会性を活かせていないんだよな生活に。ケチで、金を出し惜しむからってのもでかいね。帰省中、滞在期間が短かったのもあって、ただ宿泊して帰っただけという、帰省というよりか、旅行に近い風情があった。だからなのか、ずっと旅情を感じていた。郷愁。ホームシック?家にいながらホームシックだった。もうずっとここにいてもいい、ここにいたいと思った。この際アパートを引き払って、またパラサイト生活に戻ればいいんだ…。でもだめ。収入がないと。あの土地で仕事を見つけられるだろうか?僕はまたより好みして贅沢を言っている?

実家での数日は平穏だった。普段節制して過ごしているからそこそこ新しい一軒家が限りなくゴージャスに感じた。十分に立派な設備、立派な邸宅だ。母は相変わらず将来の心配をしているときが最も口数多い。こんなに豊かな文化的所有物をもっているのに心配の種は尽きないよね。災害、流行病、犯罪、財政、世間体。ニュース見るの辞めればいいのにと思った。情報があなたの不安を煽っている。でも、情報を得られないとなるとそのことでまた不安になるんだろうな。結局最初から不安なんだ。不安だから情報を集める、それでまた不安が増幅する、その循環から抜け出せない。中毒なんだよね。察するものがある。僕も中毒だから。自己愛中毒。自己嫌悪中毒。

弟とも相変わらず。弟は僕以上に無口で対人関係に回避的だ。日中もずっとカーテンを締め切り、部屋にこもってゲームをしている。猫背に蓬髪、充血した目。なんという典型的な引きこもり像。1年ぶりに会ったら前より迫力増してて笑ってしまった。殺気がすげえよ。僕にとってはアニメマンガネットの話を気兼ねなく振れる数少ない話し相手である。やはり社交のかなめとは会話の掴みすなわち共通の話題共通の趣味なのだろうか。いや、関係ない。単に僕が内弁慶なだけ。喋りたいけど警戒されている。食事のとき一瞬顔を合わせて、二言三言声をかけてみる。蚊の鳴くような声で返事を返してくれる。そしてすぐに限界を感じて、逃げるように自分の城に戻っていく。僕は弟がそうしたくなる気持ちに共感する。母は不服がる。

母と弟との関係、会話にはひりつきを感じる。母はあれやこれやを、根掘り葉掘り聞きたい気持ちが先行するのか面接官みたくなりがち。弟は質問攻めから逃れようとより一層頑なになる。僕は二人の仲介者みたいな立ち位置に。かわんねー。いつも通り。

数日でアパートに戻って、また灰色の日常に馴染んだ。

 

この頃また感覚が少しましになったと思うことが増えた。例えば接客用の愛想笑いで自分を過剰に憎まなくなったし…。僕が愛想笑いをする自分を嫌いなのは、その笑いが媚びへつらいだと思うから。どうか機嫌を悪くしないでください。どうか機嫌をよくしてくださいといってへらへらと自分を差し出す。身売りだ。自分を不当に卑しいものとして扱ってるから憎しみを感じる。一方で笑みは鎧になっている。利益を求めて差し出したぶんだけの収益はあるという体感があるから、やめるにやめられないんじゃないだろうか。そう思うと、じゃ結局自分が欲しいものを得ようと思って自らそう振る舞ってるんだからなんのことはない。必要に迫られてるからそうする。防衛反応。生理現象。水を飲みたいと乾き飢えている人に、その水に手を伸ばすなと言えるのか。三日三晩寝ていない人が柔らかい寝床を目の前にしたとき、その体を横たえることを禁じられるのか。意志の力で。無理だよ。抗えない。僕が笑いたくなるのってそういうこと。止めたとしてそれは一時しのぎ。一時しのぎ?根本の乾きを放置し、なお水という安定剤の供給を断つなら余計ひどい。だから憎しみを感じたとしても、行為を責めたり止めさせようとしても意味がない。という諦め。必要なのは水なのでは?別にいいじゃん、愛想笑い。実家で二人の板挟みになってるときにやってることと、本質的には同じ。同じってかなんも変わらん。それを卑しいと感じるかどうか、感じ方の違いでしかない。あはは。

それに、なんかぐちゃぐちゃ言ってみたけど、自分の非社交的な部分にやきもきするときのやきもき度合いだってずいぶんトーンダウンしてる。関係に消極的になるのは萎縮したり怯えたりしているから、それはそうだけど、それ以上に干渉の拒絶がある。不可侵の領域に踏み込まれたくないから、自分で、勝手に、一切を受け入れることを避けている。全部そうなんだよ。その状態は自分が望んで作り出している作法でしかない。これって自己責任論?でもある面では実際そうなんだし。ある面だって!全面的にの間違いじゃねーの?いや、責任がどうとかって自分を責めるのが目的なんじゃない、単に、外側に原因を見つけられるのと同じように、自分の内側も原因を見つけられるって話。原因を見つけたからなんなんだろう。とにかく、ただ気まずいってだけの話でそんなにオーバーに気持ちを膨らませなくてもいいよね。気まずい。だから息が詰まりそう。終わり。気まずくないようにしないといけないのにとか。気まずくなってしまうような自分の心構えがとか。そういう問題意識が次々に生み出す不安、大袈裟に捉えた焦り。そいつをいかに観察するか。べつに大袈裟な焦りを感じていても構わない。不安を増幅拡大させたくなっても一向、構いやしない。ただ観察してる。なるほどねと思う。大袈裟に焦っているねと思う。自分の思考パターンのサンプルを採集する。ひたすら。できてる?採集。さあ…。とにかくそういう姿勢がパニックから一歩離れさせてくれる。今までもそうして対処してきた。けど今が一番板につきてきた感じがする。それを続けてある日突然オープンな社交性を獲得できたり、急にその場の気まずさを解消できる積極性を手に入れたりとか、そういうことは起こらない。とはいえ自分の身に起きている現象を隠すみたいに、表面上だけでも体裁よく見えるよう苦心したり、付け焼き刃の理論武装や、不自然にキラキラした努力信仰で、感情と衝動を飼い慣らそうとは、もう思えない。

 

気まずい。居づらい。居心地が悪い。得も言われぬあの不快感。僕が人から遠ざかりたがる理由の大半は、これらの感覚にさいなまれるのを避けるためだが、どっこい逃げようとすればするほど、余計にこれらの感覚から逃れられないようになっている。気にしすぎ。それだって今突然判明したわけじゃない、ずっとそれは頭ではわかってる。頭でだけわかってても意味がない。

比較する。どうして他の人は人が平気なんだろう。なんで僕はこんなに人が平気ではないのか。僕も他の人みたいに人が平気だったらよかったのにな。人が平気じゃない僕より人が平気な他の人のほうが自由で幸福そうに見える。自動思考が働く。劣等感が生じる。比較は緩慢な毒。僕はもういいと思ってるよ。僕が人を平気だろうが、人を平気じゃなかろうが、頭では……。どうして対人関係にさえ自由と幸福を見出そうとするんだろうか?自由も幸福もいたるところに溢れているのに、あえてその一点に強く執着しなくてもいい、違う?執着。執着はどうすれば手放せるだろうか?気にしないこと。口を揃えて言うじゃないか、気にするなと。僕はそれに倣おうと思ったんだ。気にしないでいられたらそりゃそれが一番……一番問題解消の近道だし……近道。それがゴールなのでは?僕はいつも誰かに倣おうとしているよ。助けとか救いを求めて。倣うって、ちがいをみつけておなじにするんだよ。なんだってそんなことしたがるんだ?おなじになんかなりたくないね……どうして?苦痛だからだよ……人と同じになることがゴール?

気にしないためにはどうすればいいか。それは気にしている自分を気にすることで達される。注意を向けている自分に注意を向ける。マインドフルネス的な。的っていうかずっと言ってる観察ってまさにそれ。僕はあれこれ気に病んでる。気に病んでいる自分を気にしているし。入れ子。気に病んでいる状態は一次元的で、気に病む自分を気にしているときには二次元的になり、さらにその二次元的な自分をこのように文におこして三次元的に観察する。観察できてんのほんとに?さしずめ読むとき読む者は四次元の存在なんですよ。第四の壁を破っていこうね。考えすぎるとどうでもよくなってくる。複雑すぎて諦める。思考停止?違う。どうであっても構わないという無抵抗な心境。どっちに転んでも知ったこっちゃねえよ。これなんですよ。荒波の中で舵を切り小さなオールで対抗しようとすれば船は転覆する。船のなにが問題だっていうんだ。積み荷ごと沈むのか?船もオールも舵取りも問題じゃない。もっと大きいもののほうが重要。海とか。 フニャフニャ……

ねじまき鳥クロニクル

 

「ねえ、ねじまき鳥さん、あなたがあそこの井戸の底にいるあいだ、私はだいたいここに寝ころんで日光浴をしていたのよ。ここから空き家の庭を見ながら、体を焼いて、井戸の底にいるあなたのことを考えていたの。あそこにねじまき鳥さんがいるんだって。あの深い暗闇の中であなたがお腹をすかせて、ちょっとずつちょっとずつ死に向かって近づいているんだって。あなたはあそこから出られない、あなたがあそこにいることは私しか知らない。そう思うと、私はあなたの苦痛やら不安やら恐怖やらをものすごくありありと感じていることができたの。ねえ、わかるかな? そうすることによって、私はねじまき鳥さんという人間にものすごく近くまで近づけたような気がしたのよ。本当に殺しちゃうつもりはなかったのよ。本当よ、これは。でもね、ねじまき鳥さん、私はもっと先まで行くつもりだった。 ぎりぎりのところまで。あなたがぐらぐらして、怖くて怖くてしかたない、これ以上は我慢できないくらいになるまで。その方が私にとっても、あなたにとっても、いいことだと思ったの」

 

「ねえ、ねじまき鳥さん、私は自分が汚されているとかそういう風には感じないわよ。私はただなんとかそのぐしゃぐしゃに近づきたかっただけなの。私は自分の中にあるそのぐしゃぐしゃをうまくおびきだしてひきずりだして潰してしまいたかったの。そしてそれをおびきだすためには、本当にぎりぎりのところまで行く必要があるのよ。そうしないことには、そいつをうまくひっぱりだすことができないの。おいしい餌を与えなくちゃならないの」、彼女はそう言ってゆっくり首を振った。「私は汚されてはいないと思う。でも救われてもいない。今のところ誰にも私を救うことはできない。ねえねじまき鳥さん、私には世界がみんな空っぽに見えるの。私のまわりにある何もかもがインチキみたいに見えるの。インチキじゃないのは私の中にあるそのぐしゃぐしゃだけなの」

 

さて私は思うのですが、世の中の人々の多くは人生とか世界というのは、多少の例外はあるものの、基本的にシュビ一貫した場所であると(あるいはそうあるべきだと)考えて生きているのではないでしょうか。まわりの人たちと話をしていて、よくそう思わされるときがあります。なにかが起こると、それが社会的なことであっても個人的なことであっても、人はよく「つまりそれは、あれがこうだから、そうなったんだ」というようなことを口にして、 多くのばあいみんなも「ああそうか、なるほど」となっとくしてしまうわけだけれど、でも私にはそれがもうひとつよくわからないのです。「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなっていないんじゃないかしら。つまりそのスイッチとチンとのあいだに実際になにが起こっているのか、ふたを閉めちゃったらまったくわからないんだものね。「茶碗むしのもと」はみんなの知らないあいだに暗闇の中で一回マカロニ・グラタンに変身して、それからまたくるっと茶碗むしに戻っているのかもしれないじゃない。私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。私はむしろ、「茶碗むしのもと」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。そりゃまあもちろんびっくりはするだろうけどね、でもやっぱりちょっとはほっとするんじゃないかな。少なくともそんなに混乱はしないと思う。 だってそのほうが私には、ある意味ではよほど「現実的」なことのように感じられるから。

「それがどうして現実的なのか」というのを筋道だてて言葉で説明しようとするとすごくむずかしいのだけど、たとえばこれまで自分のたどってきた道筋みたいなのを実例としてつくづく考えてみると、そこに「一貫性」なんてものがほとんどないってことはよくわかると思うの。まずどうして私があの雨蛙みたいに退屈な夫婦の娘として生まれたかというのが謎です。ひとつの大きな謎です。何故なら自分でいうのも何だけれど、私はあの夫婦を二人あわせたよりもまだまともだからです。エバッテいるんじゃなくて、これはじつに本当の事実なのです。両親より私の方が立派だとはいわないけど、少なくとも人間としてはまともです。ねじまき鳥さんだってあの二人に会えばきっとわかると思う。あのヒトたちは世界というのは高級建て売り住宅の間取りみたいにシュビ一貫して説明がつくと信じています。だからシュビ一貫したやり方でやっていけば、すべては最後にはうまくいくと思っているのです。そして私がそうしないことに混乱したり、悲しんだり、腹を立てたりするのです。

どうしてそんなとんまの両親の子供として私はこの世に生まれてきたのだろう、どうして私はそのヒトたちに育てられながら、同じようなとんまな雨蛙の娘にならなかったのだろう? 私はずっと大昔からそれについてずいぶん考えてきました。けれどうまく説明できません。何かちゃんとした理由があるような気もするのですが、私には思いつけないのです。そういう筋道の通らないことがほかにもけっこうたくさんあります。たとえば「どうしてまわりのみんなは私のことをそんなに毛嫌いするようになったのか?」とかね。私はとくに何かまずいことをしたわけでもない。私はごく普通に生きていたのです。なのにある日ふと気づくと、私は誰にもすかれていなかった。それは私には本当によく理解できないことだったの。

そしてミャクラクを欠いたことが別の非ミャクラクを導いて、それでいろんなことが起こってしまったように私には思えます。 たとえばそのバイクの男の子と知り合って、ろくでもない事故をおこしちゃったりとかね。私の記憶の中で、というか私の頭の中の順序として、「これがこうだから、こうなって」というのがそこにはないのね。チンしてふたを開けるたびに、自分でもまったく見覚えのないものがぽっと出てくるみたいなの。 

それとも世の中には何種類かの人間がいて、ある人にとっては人生や世界は茶碗むし的に一貫したものであって、またべつの人にとってはそれはマカロニ・グラタン的に行きあたりばったりのものなのでしょうか。私にはよくわからない。でも私は想像するのだけれど、私の雨蛙みたいな両親は、もし「茶碗むしのもと」を入れてチンしてマカロニ・グラタンが出てきたとしても、たぶん「自分はきっとまちがえてマカロニ・グラタンのもとを入れたんだな」と自分に言いきかせたりするんじゃないかな。あるいはマカロニ・グラタンを手に取って、「いやいや、これは一見マカロニ・グラタンに見えるけれど実は茶碗むしだ」と一生けんめい言いきかせたりするかもしれない。そしてそういう人は私がもし「茶碗むしのもとを入れてチンして、それがマカロニ・グラタンに変わることもたまにはあるのよね」と親切に説明してあげても絶対に信じないだろうし、逆にかんかんに怒ったりもするんだと思う。ねじまき鳥さんはそういうのってわかりますか?