頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

辞表も書いて今のところを辞めることは決まった。

この先なんもあてないけど…。

次なにやるの?いや…まだなにも未定です。やばいんじゃないのそれ。そうですよね。もうさ親に頼るわけにもいかないでしょ。そうですよね。次選ぶときは近場がいいよ、移動時間なんて無駄でしかないでしょ、無駄だよ無駄。ははは、そうですね。

という会話をした。

移動時間は本読んだりネット見たりして楽しいから僕は別に退屈じゃないしだいたい無駄とかいい始めたら人の一生そのものなんか無駄の塊でしかないのではとか思ってたけど会話続けるのだるくて喋るの放棄してしまいましたすいませんでした。すぐ自分の内側に籠もる逃げる。

はーあてがね~。

うう…

引っ越しをしたい、家賃今よりもっと安いところ。生活の質とか知らん休みや休み。週休3日移動時間込みで8時間で表面張力ぱっつぱつよ。さすがにいきなりフルタイムは無理ってわかってたから死なない範囲を模索して改めてわかったけどやっぱ無理だわ、週5日8時間労働とか狂気でしかないすごすぎるでしょ、どうなってんのまじで。一生こんなのは不安です!意識は相当不衛生なモード!神経症で交遊増えねえ!人格矯正手遅れのまま~でいいの……決心 うまれかわってーまともな人になるー変身 ベルトを巻いてーたたかう人に……

ガラスの街

 

言うまでもなく、クインはとっくの昔に、自分をリアルだと考えることをやめていた。もしいまも自分が世界のなかで少しでも生きているとすれば、その生のマックス・ワークの架空の身体を介した一段へだたった生である。それに対して、彼の探偵は、必然的にリアルでなければならない。探偵小説の本質がそれを要求している。クイン自身は、自分が消えるままに任せ、 隠者めいた奇妙な生活の奥にこもっていく一方、ワークは他者たちの世界で生きつづけた。クインが消えれば消えるほど、その世界でのワークの存在はますます堅固になっていった。 クインはどこにいても場違いな気まずさを感じがちだが、ワークは何ごとにも動じず、舌の回転が速く、どんな場所に迷い込んでも平然としている。クインにとっては厄介そのものの事柄も涼しい顔で受け止め、波乱万丈の冒険もこの上ない落着きと無関心を持って切り抜ける。創作主としてはつねに感嘆する他なかった。クインがワークになりたいと思った、というのとはちょっと違う。ワークのようになりたい、というのでもない。むしろ、本を書いているあいだワークになったふりをすること、たとえ頭の中だけであれその気になれば自分だってワークになる力があるのだと思えること、それがクインを励ましたのである。

 

「誰ですって?」

ハンプティ・ダンプティ。おわかりでしょう。卵の

「あの『ハンプティ・ダンプティ、へいにすわった』の?」

「そのとおり」

「わかりませんね」

ハンプティ・ダンプティ、人間の置かれた状況のもっとも純粋な具現化です。いいですかあなた、よくお聞きください。卵とは何でしょう? いまだ生まれざるものです。これはパラドックスではないでしょうか? いまだ生まれざるなら、どうしてハンプティ・ダンプティは生きていられましょう? にもかかわらず、彼は生きています、間違いなく。そのことがわかるのは、彼が言葉を喋るからです。それ以上に、彼は言語の哲学者です。『私が言葉を使うときは――とハンプティ・ダンプティは、いささか蔑むような口調で言いました――私がそれに持たせたいとおりの意味を言葉は持つのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。問題は――とアリスが言いました――言葉にそんなにたくさんの意味を持たせることができるかどうかってことよね。問題は――とハンプティ・ダンプティは言いました。――どっちが主人かってこと、それだけさ』」

ルイス・キャロル

「『鏡の国のアリス』第六章」

「面白い」

「面白いでは済みませんぞ、あなた。決定的に重要なのです。よくお聞きください、あなたにもためになる話ですぞ。アリスに向けて行なったささやかな演説において、ハンプティ・ダンプティは未来における人間の希望を描き出し、人類救済への鍵を指し示しているのです。すなわち、人間が人間の語る言葉の主人となること、言語をして人間の必要を叶えせしめること。ハンプティ・ダンプティは予言者だったのです。真実を語った、世界がまだ受け入れる用意のできていなかった人物なのです」

「人物?」

「失礼。口が滑りました。卵ですな。だがこの言い違いは、真実を衝いた、私の論を支えてくれる誤りと言うべきでしょうな。言うなれば人はみな卵だからです。私たちは生きて存在していますが、己の運命たる次元にはまだ到達していません。我々は純粋な可能態であって、いまだ訪れざるものの一例にほかなりません。なぜなら人は墜ちた存在だからです。創世記にある通りです。ハンプティ・ダンプティもやはり墜ちた存在です。塀から墜ちて、誰も彼を元どおりにできない。王さまも、王の馬たちも兵たちも。ですがそれこそまさに、人がいまみな努めるべきことなのです。それが人間としての私たちの義務です。卵を元どおりにすること。なぜならあなた、人間一人ひとりが、ハンプティ・ダンプティだからです。彼を助けることは私たち自身を助けることなのです」

「説得力のある論だ」

「反論のしようはないはずです」

「何のひびもない卵」

「いかにも」

 

 

「でも何だってサンチョもほかの連中も、そんな面倒なことをやる必要があるんです?」

ドン・キホーテの狂気を治すためです。彼らは友を救いたいと思ったんです。覚えてらっしゃるでしょう、冒頭で彼らはドン・キホーテの持っている騎士道物語をみんな燃やしてしまいますが、効き目はありません。憂い顔の騎士はいっこうにおのれの妄執を捨てません。そこでみんな、それぞれ思い思いの変装をしてドン・キホーテを探しに行きます。ドン・キホーテを丸め込んで家に連れ戻そうと、悩める乙女に、鏡の騎士に、銀月の騎士に身をやつすのです。最終的に、彼らの試みは事実成功を収めます。本は彼らのさまざまな作戦のひとつでしかありませんでした。要は、ドン・キホーテの狂気に対して鏡をかざし、彼の馬鹿げた、愚かな妄想を逐一記録して、やがて本人が読んだ時におのれの過ちを悟らせようと目論んだのです」

「なるほど、面白い」

「でしょう。ですがまだもうひとひねりあるんです。私の見解では、ドン・キホーテは本当に狂ってはいませんでした。狂人のふりをしていただけです。それどころか、すべては彼が陰で操っていたのです。いいですか、作品中ずっと、ドン・キホーテは後世という問題にこだわっています。何度も何度も、実録者が自分の冒険を正確に記録してくれるだろうか、と気にしています。これはつまり、ドン・キホーテが事情を理解していたことの表われです。実録者が存在することを彼はあらかじめ知っていたんです。そしてその実録者とは誰か。これはもう、忠実なる従士サンチョ・パンサ以外にありえません。ドン・キホーテはまさにこの目的のために彼を選んだのです。同じように、ほかの三人を選んで、役を割り当てたのも彼でした。ベネンヘーリ四人組を作り上げたのはドン・キホーテだったのです。作者たちを選んだだけでなく、アラビア語の原稿をスペイン語に訳し戻したのもおそらく彼でした。ドン・キホーテならやりかねません。あれほど変装の術に長けた男にとって、肌を黒くしムーア人の衣装をまとうくらい訳なかったはずです。トレドの市場での、その情景を想像するのは楽しいですよ。ドン・キホーテの物語を解読させる仕事に、セルバンテスドン・キホーテその人を雇う。実に絵になる構図です」

「でもまだ説明してくださっていませんよ、なぜドン・キホーテのような人物が、わざわざ静かな生活を中断してそんな手の込んだいたずらにかかずらわったのか」

「そこがまさに一番面白い点なんです。私が思うに、ドン・キホーテは実験を行なっていたんです。同胞たる人間たちの信じやすさを試そうとしていたんです。世間にわが身をさらし、この上ない確信をもって嘘やナンセンスを語ることは可能か? 風車を騎士だと言い張り、床屋の金盥を兜だ、人形を本物の人間だ、と言い張ることは可能か? 言いかえれば、それが愉しみを与えてくれるものなら、人はどこまで冒涜的言動を許すのか? 答えは明白でしょう? どこまでも、です。我々がいまも『ドン・キホーテ』を読むことがそのいい証拠です。この本はいまだに我々をおおいに愉しませてくれるのです。結局のところ、人が本に求めるのはそれに尽きます――愉しませてくれること」

 

住環境を整え、肉体的に生活を維持することに、毎日一定の時間が割かれた。とはいえ、概して時間はたっぷり残った。誰にも見られたくなかったから、他人は極力避けねばならず、ゆえに他人を見ることも他人に話しかけることもできず、 他人について考えることもできなかった。昔から自分は独りでいるのが好きな人間だとは思っていたし、この五年間は進んでそうしてもいた。だがこうして、路地の暮らしを営んでいくことで、本当の孤独とはどういうものかをクインは知った。もはや自分以外、誰一人頼れるものはいない。路地で過ごした日々に為した様々な発見のうち、これだけは疑いなかった――自分が落ちていきつつある、ということ。が、そんなクインにもわからなかったのは、落ちつつあるのなら、どうやってその落ちる自分をつかまえることができるのか?という点だった。上と下に同時にいることは可能か? それは筋が通らぬ話のように思えた。

 

目が覚めると部屋は暗かった。どのくらい時間が経ったのか、よくわからなかった。いまは同じ日の夜なのか、それとも次の日の夜なのか。夜などでは全然ないという可能性もあるな、 とクインは思った。単に部屋の中が暗いだけで、表では、窓の向こうでは陽が照っているのかもしれない。少しのあいだ、起き上がって窓まで行って見てみようかと思ったが、どうでもいいことだと思い直した。もしいまが夜でなければ、やがてあとで夜が来るだけの話だ。それは間違いないことである。窓の外を見ようと見まいと答えは同じだ。その反面、ここニューヨークが事実夜だとするなら、どこかよそではきっと陽が照っているにちがいない。たとえば中国はいま午後なかばで、田んぼに出た人々が額の汗を拭っていることだろう。夜も昼も相対的な言葉でしかない。絶対的な状況を指し示しているわけではない。いついかなる瞬間も、つねに夜でもあり昼でもある。我々にそれがわからないのは、我々が同時に二つの場所にいられないからにすぎない。

多分僕は親切な人間になりたいんだと思う。

自然な手助け。困っている人を手伝ったり声をかけたりすることが当たり前にできるような。それはやりたくてやっているのだから、当然相手になんの見返りも期待しない。自分の期待、相手の問題が解決されるという結果が得られなくても、それはあくまで自分の勝手な期待なのだから、拒まれたり非難されたりしても、失望も逆恨みもない。相手の意向を無視して押し売りするような形でも、独善的でもない、単に不足を補うだけの、淡泊なほどに自然な関わり。

僕は自分が僕の思い描くような親切な人間ではないから、いつも自分に怒っているんだろうか。だから自分の期待からはずれた、似たような親切でない人物に対して、同じように怒りを感じるんだろうか。嘘でもいいからあの人やあの人のように、親切に振る舞うことができたら、自分に対する失望もなくなるんだろうか。

独善でも押し売りでもない親切ってなんなんだろうか。『粘着でも不精でもない愛』…。

困っている人。ハンデを負った人間。そこに向ける視線。「親切な人間でありたい」という動機から人に対して優しく振る舞うことは、それがすでに独善だと思うけど。でも、骨折をした不便を補う手助けをすることと、骨折したから優しく振る舞うこととは、全然違っている。行為は同じでも、後者はエゴを満たすことを目的にしてる。あくまで前者、自分の満足じゃなく、相手の満足を目的にした行為が、偽善と親切の分かれ目なんじゃないのか。相手が満足を得ることに自分が満足を感じるんだから、やっぱりそれだってエゴの一種ではあるんだろうけど。それで言うと、鬱になったと申告しはじめてから突然友人に対して気を揉みだすのは、お手本みたいな偽善で、笑ってしまう。僕は、あの人達に対して、自分がちっとも「友人」らしくなかったと思うから、罪悪感もある。どこかへ出かけて遊んだり、自分の手の内を明かしたり、雑談を楽しんだりするのは、僕にはものすごい高負荷で。それでも一度流れに身を任せてしまえば、時々はそれだって楽しむこともできた。でも、何年経過しても、自分からそれを求めるという気持ちにはなれなかったし、今になってもそういう気持ちは沸かない。僕はいつも受け身で、ただ同じ時間を共有しただけ。お互いに縁を切ることがなかったから、その間つながっていただけ。眼中にないというほど無関心でもなく、でも自発的に干渉もしない。なぜなら、人との関わりを楽しむより前に緊張が走るから。僕は全然およそ友人らしくない。向こうがどう思ってるのかは知らないけど。

親切。僕の中で一番問題にしているのが、あくまでも相手の不快感を減らすというところにあって、だから僕の中でのもっとも最適化された親切心は、自分が関わった結果相手にもたらすかもしれない不快感を減らすこと。最初から関わりを持たないこと。最初から自分がそこにいさえしなければ、自分がそこにいる結果生んだかもしれない不幸を回避できる、という論法。それが、人に対して与えられる自分なりの最大のサービス、最大の善意だと本気で思ってるから、息を潜め逃げ隠れするし、簡単に自死を願える。自分を殺そうとしたり、息を潜め逃げ隠れすることが善意?どこが?どこがどうしてこうなった。減点方式の世界観で生きていて、自分がなんかするごとに、人に不快感をもたらすと思ってる。そうかもね。でもそれだってたかが知れてるじゃないか。だいたい自分がやってることで人に不快感をもたらすとしたら、逃げ隠れすることを真っ先に不快に感じるだろうね。こういううじうじした性格にも不快感を催すだろうな。僕に不快感を感じるであろうタイプの人の生きる世界、価値観、そのシルエット、すべて簡単に想像できる。タイプを想像?こんなものは誰だって見たり聞いたりすれば大なり小なり不愉快になる。石の裏に張り付いた有象無象の虫。僕は自分が人の不快を催すものだけで構成されている人間だと思う。だからなんだよ。だったらなんなんだよ!堂々としてればいい。所詮私は人に不快感を及ぼすしか能のない存在ですと胸を張ってればいいんだ。卑屈になられると余計不愉快だよ。そして僕自身は石の裏の虫や人のうじうじした側面を見ているのがすごく好きだから、「誰だって不快になる」というのは言い過ぎだと思う…。それは「不快感」が癖になるから好きなんであって、不快だってことに変わりはないでしょ。ああ、はい、そうなのかな。そんなに人が不快に思うかどうかって重要なのかね。重要じゃないの?だいたいそんなおおごとに捉えられるほど、人に及ぼす影響力を自分は持っていると思い込んでるの、すごい自己評価高いと思うんだよな。どうしてそんなに自分に影響力があると思えるんだよ。たかが知れてる、それは本当にそうだよ。たいした人間じゃないのに、そうやって卑屈でいられるのは自己評価が高いからだ、自分のことをたいした人間だと思ってるから…。人はそう簡単に影響を及ぼされたりはしない。そうかな…。僕は自分が影響を受けやすい性質だと感じるから人もまた同じだと誤解する?自信がないことに関して自信があるから卑屈でいられる。なんでそんなに自分を高く評価するんだ。自分をよく知っていればそんな風には解釈しないはずだ。つまり僕は自分のことをわかっていないしよく知らない……。そりゃそうだ、こうやって受け売りの思想を切って貼ってしただけのワードサラダで遊んでるんじゃね。自分の考えじゃない。どこかで入手した道具を自分で試し切りしてるだけ。自傷行為

 

 

人と同じ空間にいるときに感じている感覚を、誘拐犯と同居している気持ち、と例えているツイートを観測した。

『何をするにも気を使って、ニコニコして、好きに発言はできなくて、怒らせないように顔色を伺ってしまいます』。

それに共感を示す別の人のツイート。他人の気持ち、状況、文脈を推し量る能力が自分にはない、だからこそ攻撃、怒られから身を守ろうとして、結果鎧のように笑顔を貼り付け過剰に謙遜して振る舞う。『わたしは基本的に他人が怖い』。

 

今働いている職場には事務所があって、職員は日中ずっとそこにいる。電話対応をしたり事務作業をしたり食事をとったり。10前後ある机はそれぞれが、長く努めている職員専用の席になっていて、僕はそのときどきで空いている席を借りて食事をする。かかってきた電話には、事務所に誰もいなければ、自分が出て対応するように指示されている。相手の名前と電話番号、要件を控えて職員の誰かに引き継ぐ。そういう指示を受け、一年近く在籍しているのにも関わらず、僕はまだ電話対応をしたことがない。事務所には対応できる人が数人駐在していて、ほとんど無人になることはないから、自分が出なくても大きな支障はないとか。僕は業務全体の流れをぼんやりとしか把握していなく、細かな作業の内訳を全然把握していないので、専門用語や言ってることの意味が理解できていない。今話している仕事の内容が、全体の流れのどの部分に当たるのか、そもそも全体がどういう流れになっているのか、わかっていない。こういう認識の人間が対応することで、余計現場を混乱させるんじゃないかとか。このように脳内で勝手に理屈づけて、電話対応に消極的な自分を正当化しようとしているけど、そうやって考えたもっともらしい言い訳も、述べることすらしない。傍から見たら単なる怠慢で、業務放棄してるようにしか映らないだろうから、印象最悪だな、と考える。「適材適所だからね」。あれは僕のことを僕に向けて言った言葉だったんだろうか、えらいひとが誰に言うともなく空中に放った言葉を思い出す。それを免罪符にしているのか。

見てわかれ、わからないことは聞け、やる前から失敗を恐れるな、自分で考えろ、考えてわからないなら教えを請え、とにかくやろうという姿勢は最低限持て、主体性を持って自分で動け、逃げるな。

そういう声を頭の中で聞く。

体は萎縮している。

なにをどこからどう聞き出せばいいのかがまずわからないので、なにをどこからどう聞いたらいいのか手をこまねいているうちに、質問の機会を逃し続ける。

言い訳はいいから体を動かせ。やることをやれ。

主体性を持って動いた結果失敗したり、よかれと思ってやった行為がかえって周囲の手間を増やしたり、邪魔になったりする。そういう経験を踏まえて、人の迷惑になるようなことはするな、迷惑をかけるな、言われたことだけをやっていればいい、余計なことはするな、という命令も、頭の中で同時に生み出されている。

この二つは葛藤している。

そして実際、言われたことだけやっているのが一番効率がいい。言われたこと以外をやるのは怖い。

主体性を持つとか、自分で考えて動くっていうのは、具体的にどういうことなんだろうか。ある問題に対して不足してるもの、求められている解決方法がなんなのかを瞬時に判断して、穴を埋めることができる能力のことだろうか。「察しのよさ」。それはどうしたら身につくものなんだろうか。仮に察せたとしても、萎縮して体を動かせないのであれば、実行に移しようがない。なんでこんなに萎縮しているんだろうか。どうしたら萎縮しなくてすむようになるんだろうか。そもそも萎縮してしまうような場所にいる必要性をなくせばいいんじゃないんだろうか。

……。

事務所にいるのは昼休憩のときだけで、それ以外の時間は事務所の外にいられる。清掃と、簡単な店番をやっている。そうしている間は、ほとんど一人で過ごせるから、気が楽だ。

 

どうして同じ空間に人がいると萎縮してしまうんだろうか。相手が家族でも友人でも、程度の大小はあれ緊張を感じる。どうすればそうならなくなるんだろう。でも、それはあって当たり前の、普通の状態なんじゃないんですか。それをなくしてしまえるなどと考えるのは、心肺機能停止した状態で呼吸をしたいと願うようなことなんじゃないですか。僕は、この緊張感がなくなると、自分はすごくひどい振る舞いをして全部台無しにしてしまうと感じるから、緊張感は「ひどい自分」を抑制する働きを担っていると思う。ただその程度がちょっと病的なだけで。緊張したり萎縮したりしていれば、意志のない受動的な人間にはなるけど、少なくとも積極的に「自分の言動」で周囲をめちゃくちゃにしたりはしない。緊張のかせがなくなったら、能動的になれるかわりに「自分の言動」で全部台無しにしてしまうリスクも負うことになる、それが怖い。台無しにするとか、ひどいこととか、めちゃくちゃにするって、具体的に何を指して言っているんだ。世の中やすべての存在に対して満遍なく感じている悪意や嫌悪や、否定的で攻撃的な感情、暴力性を発露してしまうことへの恐れ。でもそれと対になるような感情も持ってるんでしょ。うん、でも世界やすべての存在に対する好意的な感情だって、それ自体が暴力性を帯びている。どうして好意を向けたり向けられたりすることが暴力的でないと言える?だいたい、肯定的な側面があるからといって否定的な暴力性が消えるわけじゃない、表面上隠されているだけで…。いや、それはみんなそうだよ。みんなそうだから何?自分だけ特別苦しんでるわけじゃない。十分知っている、だからそれがなんなんだよ?そんなことでいちいち苦しんでいるのは時間の無駄だよ。じゃああなたは無駄を切り捨てて合理的効率的に過ごしていけばいいんだ、あれこれ思い悩むのは時間の無駄で、悩んでる人間に関わるのも時間の無駄なら、あなたは今まさに時間を無駄にしているというわけだ、僕はあなたのように割り切れないから、こうして無駄に過ごしているんだし、割り切れていたら最初から悩んでいない。ぐちゃぐちゃうるせえな。そうやって卑屈を正当化してるのが望みなの?いいえ。

 

今日読んだ漫画に、こういうような一節があった。自分は、人に何も与えることができないかわりに、人から何かを与えられることも求めない。しかしここに来て、ツケが回ってきた。他人から離れ、一人で全部解決して楽をしようという今までの生き方が、今自分を悪い状況に陥らせている。……

ブログ開設してから1年経過した。

はてなブログは概要の詳細ページを開くと、こよみモードという画面に切り替えることができる。一年前のその月に書いた記事を、さかのぼって表示してくれる機能がついていて、それで、ブログをはじめて一番最初に書いた記事を読み返していた。これね

脳から直接転写したみたいなお喋り。お得意の雑なやつ。まあそれでいい。目的は中身を開陳することだから。なにも見えないなにも言えない、精神性の聾唖状態から脱したい。そのために書くという行為の薬効を頼ってる。でも書くことのハードルを上げると書くこと自体がおっくうになる。おっくうになるとすぐに放り投げる。体裁を保って、目的を意識してそれに忠実に、独り善がりにならないように、誰が読んでも伝わるように、論理が文体が構成が推敲がセンスが思考回路が価値観が…もっとああで、もっとこうでと欲張りだすと、そういう望み一つ一つに一回一回こけて、勝手に責任感じて勝手に緊張して勝手に怯えて勝手に嫌になり、まばたきの一瞬で一連のそれが感情全体に感染する。そして全身は諦めに支配され身動きが取れなくなる。自分にたくさんの期待と制約を課して、それを叶えず守れないと自分を嫌い責める。うん…。僕は自分のそういう性質を嫌というほど知っている。だから期待値は下げるに限る。

この最初の記事で僕はこういうようなことを言っていた。

自分がなにを考えたり感じたりしているのか、ものを書くことによって確認したい。ところが、どうしても表現が抽象的になってしまい、もっと具体例に沿って語りたいのに、具体的な話ができない。けれども、もし具体的に語れるようになったらなったで、次はもっとこう、そこはもっとああだと、またできないこと探しをはじめて、自分を責めだすに違いないだろう。

まさにそうだね、今でも同じだ。なにかものを書くのは自分を確認していたいからだし、具体的な話をするのは苦手だし、表現が抽象的になってしまうのもコンプレックスだし、できないこと探しをしては自罰的になるのも相変わらず。

自罰。僕には自罰癖があって、なにかと言うと、自分の一挙手一投足につっかかっている。それは変だ、おかしい、ひどい過ちだ、間違った考え方だと言って、鬼の首を取ったように嬉々として自分に罵詈雑言を投げつける。正そう、矯正しようとして、罰を与えたがる。こうであるほうが望ましい、こうであるべきだという信念。信念は善意や正義に通じている。僕の中に生じた「それができるようになりたい」という些細な願いは、即座に「それができない自分などみっともないゴミだ」という道徳心の凶弾に倒れる。一事が万事その調子で。まあ今は昔よりましだけど…。

とにかく僕は自分のこの習性と、この習性のために身動きがとれなくなる自分自身を嫌った…それで一計を案じた。これをしたい、そうありたい、あれが欲しいこれが欲しい…そういった、願望という願望を捨て去ってしまえば、自分から責められることもなくなるのではないか。なにも願いさえしなければ、「願いが叶わない」という状態も生まれない。したがって「願いを叶えることのない自分」を責めることもない…。苦悩を消し去りたい。煩悩があるから苦悩が生まれる。苦悩を消し去りたいのなら、煩悩を滅すればいい。という発想。で…今度は、煩悩を滅したいという煩悩に取り憑かれはじめる。「なにも願いたくない」というもうそれ自体が一つの願いになっているから。そして、その「なにも願わないこと」を願っている自分の声を聞く。曰く。苦しみたくないと言いながら苦しんでいるのはおかしい。なぜなら、苦しまずにすむ方法は現実に存在しているから。期待するから裏切られたと感じる。苦しみたくないのなら、はじめからなにも期待せず、なにも望まなければいい。自分が勝手に期待して勝手に裏切られているだけなのに、自分以外のなにかを怒ったりひがんだり恨んだりするのは筋違い。すべては自分の意志と自分の気分が招いた結果。自分がなににも期待しなければいいだけの話。苦しみたくないならすべてを手放せばいい。

僕は、この発明をすぐに気に入った。なににも期待しない。すべてを手放す。それでずっと、その考えを根本に据えていた。これがアパシーを誘発し続けた。

いずれにせよ、自分を認めたがらなかった。自分を認めないこと。これが、自分の認識にまつわるあらゆる感覚を狂わせている元凶だと思う。そしていい加減学んだ。意識の上で認めまいが否定しようが、そこにあるものはある。いくら「ない」と言い張っても、無視しても、殺し続けても、あるものはある。消えずにあり続ける。期待も、それに伴う失望も怒りも悲しみもなんもかも。かえって見ないふりをすればするほど、感情は無意識の影の内側で、より強力に存在感を増す。本当に手放すために必要なのは、なにを手放さんとしているかのを見ることにある。なにも見えていない状態では、手放すものも手放せない。執着。執着を手放したい。自家中毒から脱したい。そのために言葉が必要だった。なにを手放したがっているのかを見るためには。まず認める以外にない。認める、それは、全受容とか全肯定とか、そういうこととは違う。そうじゃなくて、ただそこにそれがあるということを確認する。確かに認めること。存在そのものの存在に気づく。そこにそれがあるとわかっていること。これだよ。それでようやくスタート地点。

問題はでも、存在を認めたその先にある。認めたくない、否定したい対象とどう付き合っていくかという。僕は、見たくない聞きたくない関わりたくない、それについてなにも言いたくないと、そういう状態を自分に許し続けた。語る言葉を持たない。なにも語れない、なにも言うことがない…。それは当然だ。自分の一部を殺すことに慣れて、見たり聞いたりすることを避けているから。

それで僕は、認めたくない、否定したいものとの付き合い方が、関わらない、なかったことにする、逃げる、見ないふりをする…と回避一辺倒で、白紙状態なんだ、という自覚を経て、今に至る。はい。すぐ臭いものに蓋しようとするし、逃げ出したくなる。僕の意識は、見たくない部分に対して、それを都合よく見ないでいるようにできる。無視。それを僕は嫌だと思う。すごく嫌だと思う。どうしてだろうか。自分の意識や行動に対して、自覚的になっていたいと思うから。なぜ自分はこう動いたのか、なぜそう考えたのか、それを理解していたい。逃げるにしても、なぜ逃げようと思ったのかとか。なぜ無視したのか自分でわかっていたい。わけがわからないままなのは不安だ。僕は不安に気分を支配されやすい。不安に支配された状態は不自由だ。不自由な状態は望んでない。せめて心の中でだけは自由でありたい。欺瞞なく自分の状態を自覚したり言葉にしたりすること。それを一番強く望んでいる。でも欺瞞だらけだから。自分の欺瞞を暴きたいんだと思う。

べつにオチとかはないけど。生きてる間は気が済むまで自分を暴くのをやり続けていると思う。