頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

イエスマイ労働

今月いっぱいで辞めよう、って先月も思ってたんすけど、この調子で今月も通い続けるんでしょうか、限界が来るまで。なんか一回軌道に乗るとそこから気軽に脱せなくなる。「今月はまだやることが残ってるから中途半端に投げ出すのは無責任なのでは」「行かないと約束を反故にすることになるし」、これです、義務感。義務感、大嫌い。でも、義務感に弱い。でもじゃねえな、だからですわ。義務感に弱いから義務感が大嫌いなんだ。自分の都合、苦しみ、痛み、声は、いくらでも、死ぬまで、義務感の犠牲になり続けると思う。それが過労死だと思う。

 

手帳が、とか一瞬考えてたけど、なんでそんなの可能性としてでも考えたんだろうと思うくらい、今はその発想をまだ持つことができた自分を信じられない。

あなたは病気ですって言ってもらって、あなたは病気だから働かなくていいですって、それで施しを受けてまた生き延びるつもりだった? 考えも、やろうとしてたことも、やってきたこととなんも変わんにゃいすね。そのそれで親に寄生して生き延びたんじゃん? でも、もうそれヤダからって足洗ったのにね。

 

また「辞めてどうすんの?」で動けなくなるパターンだ。辞めたあとのことを考えずに動いても、同じことの繰り返しになるのでは? 今よりもっと痛くて苦しい気分で打ちのめされるに違いない。云々……。

実際そうなんじゃないのかと思う、だってそうだったし。

なにかがマシになったのかな?なにも変わんないよ。生きるために金を集めるっていうゴールの設定が同じなんだから。通る道が違うだけで。金を集めようとする限りマシにはならないという気がすごくしてる。生きようとする限りマシにならない。死なないと話が始まらない。苦しくて痛いところの先に死はある。でも、精神も体も、苦痛を避けようとするから、話が始まらない。味も変化もない慣れのなかで衰弱していく。それはとても見苦しい。そして、かわいそう。そんなになってまで死を恐れて、魂を拘束されて、動けないでいるなんて憐れすぎる。刺激や破壊のない生のなにが生なんですか、壊して壊れて壊されてなんぼですよ、つって。あれ、なんの話?

 

やりたくないことはわかるけど、やりたいことがないから、明示されたクエストを達成するみたいにはステップを踏めない。

やりたくないことをやらないでいるためには、Aのやりたくないことと、Bのやりたくないことのうちどちらかを選択しないといけない。

BよりAのほうがマシだからという理由で、現行実行中のAを選び続けて、永遠にBは想像の彼方。

 

街をふらふらしながら、アルバイトを募集している店を観察する。接客業ばかり目に留まる。接客が好きなかた募集。明るくやる気のあるかた募集。あるいは時給と時間帯要相談のみ記載の張り紙で、張り紙の奥できびきびテキパキとマルチタスクに業務をこなす店員の姿、その姿こそが求められている能力の募集要項だったり。すごいな。人と人の距離が近く、スペース狭くて空気淀んでて不自然に明るい人工の光の中で、一日に何時間も人を相手にする。なんだこの仕組み。

募集要項の、求められている能力の、なににも僕は当てはまらないので、当てはまらないなぁと思いながら見ている。「当てはまるようになったほうがいいよ!それが正攻法なんだよ!」「わざわざ満身創痍になるのが見えてる道を選ぶ意味がない、しかも対価が労力に見合わないのに」「基本的には苦痛に対してしょっぱい代償しか得られないシステムの世界線なんで」「満身創痍になるかわりに生きていていいって許可証をもらえる。生きるためには満身創痍にならないといけない。満身創痍になる道を選ばないと生きていていいって許可証はもらえないから、満身創痍になる道を選ばないといけない。生きていていいって許可証もらうために…………」「そうやってみんな許可をもらって生きているんだよ!君も生きたいなら許可を得る必要があるんだよ!満身創痍になるべきだよ!」うるせーうるせ~~~~~絶対嫌だ!絶対僕はこれだけは…。いやだからもう満身創痍なんでしょ既に。だったら今以上痛くてつらくても同じことじゃん。

登校拒否してたころ車に押し込んで無理やり学校に連れて行かれそうになったときのことを思い出した。

同じこと自分にしてる。

きっと同じことを他人にもできるんだろうな。

だったら嫌だな。

またやってもいないことで自分を嫌いになった。

また自分が自分にやっていることで自分を嫌いになった。

嫌いを数えて生きているね。

楽しい?

楽しいっていうか中毒だよね、自己嫌悪の中毒性ってなんなんだろうな。

麻薬的ー。

ごちゃごちゃ考えすぎなんだよな、僕これ嫌!嫌なのでやらないです!それで済む話ですよ。終わり終わり。終わりでーす。

やらないと殺すって脅されてるので終わりじゃないです。

 

正直当初は、対人苦手意識を克服しようという気概があった、だから今の半分は作業だけど半分は接客みたいな職種でも意識の選択肢にのぼった。けど今はもう、人から離れたい、とにかく人から逃れたいという気持ちが強い。

 

一人で、黙々と、単純作業を繰り返し続ける業務が好きなことに気づいた。うんと体を動かす単純作業は瞑想状態になれて気分がいい。掃除もいいし、手を動してものを作るのも。

土いじりがしてえな。

なにかそういう仕事。

でも人間と関わって人間と一緒に仕事する以上、同じことの繰り返しなんじゃんね。

怒られるの嫌だな。それで癖で愛想笑いのおべっか使って嘘ばっかりつくことになるんだろうな、嫌だな。怒られるのが嫌で、失敗を隠して、信用を失うんだ。へたに自分を明かして嫌悪や侮蔑や失望やひんしゅくを買って気まずくなるのが嫌で、秘密主義になって、誰とも打ち解けられなくて、息苦しくなってまた逃げ出すんだろう。

怒られるのを嫌がってるのが嫌だよ。いい加減慣れろよ。

怒られる理由わかるけどね…。物覚えは悪いし、記憶力もないし、察しも要領も悪いし仕事は雑だし~常に緊張と恐怖に支配されてるしすぐ希死念慮に捉われるし意識は朦朧としてるし。よく体裁保ってごまかせてるな…すごーい。

 

失敗をリカバリするというやりかたで人と接してこなかったから、なにかポカするともうそこでゲームオーバー気分になる、ゲームオーバーってか、今までのセーブデータ消えました、ニューゲームもできません、なぜならゲームの本体データそのものが、たった今あなたの行いによって破損されましたので、みたいな、あはは。失敗することにいつまで経っても慣れないし、いつまでも怯え続けています。怒られた理由の必然性や正当性が頭で理解できても、思考に身体がついていかない。怒られた瞬間、破滅的で悲観的な気分に支配されて、その感覚のまま時間が止まる。止まった時間の中を何度も行き来することになる。愛想笑いしながら、挨拶しながら喋りながら、頭の中のぱんぱんにうんだ膿が破裂しないように、感覚を麻痺させるのに集中し続ける。最大限「人の為」を思ってこの感覚麻痺を意識的に選択してるっていうのが絶望的、こんなに自分の痛覚のことでいっぱいいっぱいでなにが人の為だよ。膿が破裂したらひどいことになると思ってる。感情が爆発したら。それで感情を抑える。失敗の対処に当たるためにもとりあえずその場をしのぐ。抑えた感情はあとで発作的に現れる。てんかんチックな震え。失禁みたいな嗚咽。この発作も恐れる。抑圧からの発作って回路が発動するトリガーになるからまた怒られを恐れて、二重にも三重にも怒られを恐れてる!スパゲッティコード

怒られないよう怒られないようと思いながら生きてきたんだなぁ。

僕は本当に不思議なんだけど、なんで我慢ができるんだろうな。なんでって訓練積んでるんで…。どこでどうやって?どこでどうやってなんだっけ…。なんかね、耐えんくていいよ。もうそんなになるくらいなら、破裂しちゃえよ。まだ迷惑がどうとか、困らせるからとか言ってるのなんなの。建前でしょそんなの。微塵も相手の気持ちなんか考えてないよ、僕は。そんなの想像も及ばないし。困らせたり迷惑かけたりしたら生きていていいって言ってもらえなくなるからって、そう思うから自分の加害性に怯えるんで、結局自己保身なんじゃん!相手が困惑や迷惑を感じること、そこに対して罪悪感を覚えるのは一瞬で、大半は、困らせたり迷惑かけたりするとそのぶん報復を食らうと思うからそれを怖がってんでしょ。自分のことみたいには相手の痛覚を本当には想像できないから、こんなふうに、自分自分って自分のことばかり考えることになる。でももういいよ。困ってて迷惑を感じてるのはお互いさまなんだから。自分が今まさに困ってて迷惑をかけられてるって感じてるからこそ、他人のことまで考えられないくらい切羽詰まって身動き取れない、余裕がない、じゃ、報復を食らわせてみたらいいのでは?困らせてみろ、迷惑かけてみろよ、怒らせちゃえよ、へへへ。そのほうがおもしろいし、むしろそれで対等だ。我慢「してあげてる」と思うから傲慢になるんだ。だれも我慢してなんて頼んでない、ただそうしていたほうがまともで、そうじゃないならまともじゃないって「空気」を勝手に察して、まともじゃないって言われるのが怖いから、まともっぽく見えるほうに乗っかってるだけ。自分に度胸がないのを空気のせいにして、それで溜飲は下がっても、責任転嫁しっぱなしならなにも解決しないままだ。

4月だか働きはじめのとき、一回雇用主に牙むいてたのなんだったのあれは。なんかもう牙抜けちゃったもん。怒られたらすぐお腹見せちゃうよ。それもう習性なんですね。自分には相手を損なってでもそれを貫くだけの主義があるから、とかそんなのも一瞬で粉々になって考えられなくなる。お腹見せたくないよ。だから牙を研いでおく必要があったんさ。ガオー。

 

戦闘に対する耐久性が低い。非戦闘的であることが平和的だとは思わない。大抵のむごたらしいことは平和の皮の下で起きている。無関心なふりをし続けないといけないことや誰かに感情の抑圧を強いることが平和的で通るのは、距離を遠くに置いてられるうちだけ。戦闘のただなかにあって無関心と抑圧はそれこそが虐殺を助長してる。

でも、暴力にはうんざりだ。暴力的でもなく、抑圧的でもない方法があるはず。

遠くに行きたい。

一時期は毎日更新してたんだけど最近めっきり腰が重くなってしまった。習慣って、いかに腰の重さを軽くできるかにその継続がかかってるから、一回腰重ーと思ってしまうとすぐ崩壊する。これがあるんで気負わず適当に雑に神経質になりすぎず手癖でっていうのをすごく意識してたんだけど。そうまでして書く意味、意味っていうか動機が。

自分の考えていることは基本的に、言葉にならず抽象的な概念として脳内に留まっている。言葉にならないのは、喋る相手がいないからっていうのがある。相手がいないというのは実際に人と雑談なり個人的な話なりなんにせよまともに自分の考えを喋れないという意味もあるし、物理的に、話しかける=恐ろしいことというふうに体が理解しているのでよっぽどじゃない限りナイという意味もあるし、いろいろ。

まともに自分の考えを喋れないのは、自分の考えに対して異を唱えられたくない、それは間違った考え方でこう考えるのが正解だというような倫理的正しさを説かれたくない、そんなふうに考えるよりこう考えたほうがよいというふうに誘導されたくないからで、うわすげえな。もうめちゃくちゃ自分が可愛いわけですね。あたりめーだろうが自分第一だよ。とにかく、もう、自分の考えは、ある視点に立って見たとき、間違った考え方であり倫理的に正しくなく、そんな考え方よりももっと別の合理的で筋の通った考えがあると、言われるに値するものだとわかってるから、いちいち口を開いて矢面に立って、立つたびに思考の軌道修正を促されるのに、嫌気が差している。口を開かなくても、そこら中にそういうメッセージが溢れていて、「こう考えるべき」「このような人間になるべき」「このような人生を送るべき」、そうですか、うるせえしね以外の感情が消えて、瞬間的に怒りが沸騰して瞬間的に怒りが冷めて、諦めが満ちて、耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になってしまいます。

すげえ、すごい馴染むこのルサンチマンたっぷりの管巻き。これですね。中身が無。単なるストレス発散。そうだよ、意味とか動機とかぐちゃぐちゃした理屈なんかない、ストレス発散だよ必要としてたのは。ていうかまた同じ話してるし。

考えを否定されるのがヤダから喋りたくないってめっちゃアホだな。自分と自分以外とは最初から異なった存在なのだから考え方が異なっているのは大前提だし、僕自身異なる考え方に対しては否定的姿勢で挑むのに?人からそうされるのは嫌なんか?そうです。うける。

「否定的」って一口に言うけど、ある考えに対して、否定的であることと、軌道修正的であることと、拒絶的であることと、反撃的であることと、嗜虐的であることと、排他的であることと、いくらでも細分化できるけど、そういう印象を全部ひとまとめにして、否定されるのヤダとかいってるのが、すごい幼いなと思った。相手には相手の理屈と道理があって、それをもとに否定的考えがあるわけで、でもそこに思い至らないで、ただ自分がすごい痛く感じることをしてくるからヤダ、みたいな。僕はすごく、印象というか、感情というか、最初に感じる衝撃にかなり思考を左右されるところがある、痛い、まずい、気持ち悪いとか、理屈じゃなくて五感で印象を決定していて、これがかなり差別的だなあと感じる。自分は相手から、突然ぶたれたり、まずいものを無理矢理食べさせようとされたり、気持ち悪いものに無理矢理触らせられる、と思う。コイツはそういうことができる、だからキライ、で印象が固まって、漠然と警戒を感じながら接し続けることになる。どんなに表面上お互い親切に振る舞えていても、でもコイツは突然無理矢理痛いことをしてくるやつだし、と思って、絶対に距離を取る。そんな感じ。相手の全部を受容して一切無警戒っていうのも非現実的ですけど、警戒しすぎて逆に視野狭くなってる。だいたいこんなふうに考えるのは、痛いのもまずいのも気持ち悪いのも、全部常に僕自身が他者にそう感じさせているからだ、それも無理矢理に、と思うからで、どっちがどうっていうか、それはまあ鏡写しになってるんだけど。はいまたヤマアラシの話してる。なんかそれは結局しかたないことなのではと思う、存在するということは、他者と接するというのは、そういうことなんだと、痛かったり気持ち悪かったり、楽しかったり快感だったりは。磁石の極みたいになってて。単独であるわけじゃない。でも激痛を感じてる間ってクソいてえ以外他になにも考えられなくない?そして、そういう激痛をなるべくなら与えたくないと思っているから無口になる。痛みを与えたくない?でも心の底から本当にそう思ってるならとっくに自殺してないとおかしい。生きてる以上どこかの誰かのなにかの害になっていてならざるを得ないようになってるのに今こうやって口開いて生きてるんだから心の底から本当にそう思ってるわけじゃないんだよ。また死ぬとか言ってる。なんですぐ生き死にに話が飛ぶ。

結局僕は自分の痛覚にばかり意識が向かっていて、そこから出られない感じに苦しんでるのか。痛覚の外側の世界があるのに。

こんな具合に、本当の意味で他人と、その価値観と、人生と、対峙を避けて続けてきて、今も避け続けているから、いつまでも幼稚だし、いつまでも理想主義的なんだろうか。

幼稚で理想主義的な自分を「悪いもの」だと考えてるらしい。

幼稚で理想主義的な態度は机上の空論よろしく、本当の意味で他人とその価値観とその人生との対峙を避けるような姿勢になりがちだから?

対峙を避けることを悪だと感じてる。

だったら蔑視してるのは逃げ腰な姿勢にであって、幼稚さと理想主義を「悪いもの」とするのは違うのでは?

幼稚さと理想主義的態度には、地に足がついていない、現実や現場の実情を度外視しがちって共通点があって、そこが気に食わないのかも。

実情を度外視?

とにかく実際には「そう」なのに、「それはある」のに、「それがあるのはおかしい」みたいな前提で、「ある」ものを「ない」ことにして話を進めていくから…そういうところが…。

まじで考えるのがへた。

僕は全然言葉を使いこなせていなく、むしろ言葉に使われているので、使う言葉に対して非常に懐疑的で、いつもこれはどういう意味なんだ、どういう定義なんだ、どういうつもりでこの言葉を使ったんだと自分を問い詰める、それが自分以外に対してもそうだから、それを人に求めるのは酷だよな、と思う。思うし、実際に酷なことを要求してるなと思うから、そういう欲求を抑えて、適当に話を合わせたり、適当に思ってもない嘘をついたり、適当にごまかして適当にやり過ごしていき、そうするたびにどんどん自分を嫌いになる。これ以上自分を嫌いにならないために、ここや、ここみたいな場所は必要。

労働日誌。この間また鬱の波が来て病休で一日寝込んでたら翌出勤時にすげえ注意された。その日はすいません気をつけますで流した。今日またシフト通りの休み挟んで出勤したとき、ほとんど一週間またいでまだその病休のことで嫌味を言われたのでびっくりした。そんな子供っぽいことしてくるんだと思って。あぁ今日来たんだー今日絶対休むと思ったわ、休まなかったんだー、休むかと思った~つってネチネチいじってきて、しつけーなクタバレクソジジイと思うも、でも、こっちは少ない人数でやってんだからさぁ人手足りないと大変なんだよ?みんなそういう中で頑張ってるんだからさぁ、とか言われると弱いし、完全にこっちに非があるやつなんだよな。「バイトとはいえ」「社会人として」「健康管理を」「責任を持って」ていうふわふわした注意、注意ってか圧力でしょ、なにを求めてるかはわかってたけどあえて病休を取るのはだめということですか?と質問したら、そういうことじゃないけど多少具合が悪くてもみんなこうやって頑張ってるんだからさ、どうしても我慢できない場合はしょうがないけど、考えて行動してください。だって。ウーン。

シフト入ってる日に休むのはドタキャンと同等で、自分のやってる行為、ドタキャンが一般的に言って迷惑行為に当たることを僕は理解している。あれ、病欠って迷惑行為だったんだ。いや、頻繁に休みすぎってことだよね、うん。頻繁に土壇場で穴開けるのがダメ。ていうかもう本当に僕が辞めるのがお互いのためだと思う、それが「責任を持って考えて行動する」の最適解じゃないですか?実際よく嫌味だけですんでるな、何度も自己都合押し通してくる、会社側の都合には沿わない従業員、それが僕で、会社は従順で頑丈な兵士をご所望なんだよ!よくまだ僕みたいなポンコツを雇ってるな。

無理をすれば迷惑をかける結果になるのはもう経験済みだし、無理をしなかったらそれでまたこうやって迷惑をかける結果になる。

実家に帰りたくないあまり大変だよー?忙しいよー?大丈夫ー?ていう雑な面談の質問にハイガンバリマス!ていう雑な応答で返して、なんかそこでもう掛け違いがあって、僕はガンバレない人間なんだし、それはもう嘘じゃん、嘘ついて雇われてるわけです、まったくひどい従業員ですね、いやでも現状十分ガンバってるだろ!!!!!少なくとも戦力に数えてもらえるくらいにはやってるよ、そう思いたいですけど、だから注意されてるわけだし。だいたい嘘をついてると言うがその質問でいやムリです辞退しますとか答えるわけないが。いや、そこで忙しくて大変なのはムリなので辞退しますと言っておくべきだったのかもしれないです。でも忙しくなくて大変じゃない仕事とかあるのか?頑張るとか頑張らないとかそのファジーな努力信仰をまずやめろや。

どういう問題がそこにあってどうしてその問題が起きていてどのような行動を取ればその問題は解消されるのかって具体的な問答を全然しないから水掛け論になる。

とにかく迷惑をかけているのが事実なんだからどうにかしないといけない。

もう二度と病休を取らなければ今後「迷惑をかける」結果は起きないけれど、「二度と病休を取らない」でいられるわけがない、なぜなら慢性情緒不安定だから。

できないことをできると言って嘘をつき続けているのが問題の原因だよ。

できないことってなんですか?

労働。

くくりが大雑把なんだよな…。

慢性情緒不安定なのを体調不良でごまかしてしのごうとしてるのも悪質だよ。

精神の構造上不規則かつ頻繁に休息を必要とする、こういう人間はどこでどういう形態でなら白眼視されずに賃金を得られるんだろうか。「手帳」の二文字が脳裏によぎったんですが、その方向で行くか?そうだね?そのほうがむしろ社会のためまであるのでは?もらえるか知らんけど。もらえたところで雇ってくれるところあるかどうかしらんけど。

 

母とラインでやり取りをしている。何年も前から不整脈の気はあったけど、とうとう病名付きで心臓病の診断結果が降りたと。少し驚いたが、すぐに腹に落ちた。べつにこれまでとなにも変わらない。こういうときやっぱり自分は薄情なのかなと思う。あの人の人生はあの人のもので、それだけのことだと思う。なにをしてほしいとも、どう思ってるとも、なにも言ってこないし、こっちも聞いていない。身に起きている不快なできごとについて粘着質な嫌悪感をともなって淡々と事務報告されている感じ。仕事は休みがちになって、暇していると。暇ならお互いのおすすめの本を紹介しあって一緒に読書でもどうと提案したら乗ってくれた。自分でもなにをやってるのかよくわからないけど、コミュニケーションのきっかけがほしいんだと思う。とてもめずらしく、自分から踏み込んだ。僕はなんでもないときになんでもないふうに話しかけたり、雑談を振ったり、自分から自分の話を聞いてもらおうと働きかけたり、あるいは進んで相手の懐に潜り込むことに対して、非常に腰が重く、苦手としており、そのことで常に劣等感と自己嫌悪と罪悪感を持っているのですが、それは母親に対しても同じで、困ったことですね。もう再三、なんべんもなんべんも言い回しを変えて文脈を二転三転して同じこと書いてるけど。「人コワイ」。下手に接触して大事故を起こすのが怖いとか、そういう感覚ではあるんだけど。事故るのが恐いから車運転したくない、という論法。実際それでペーパードライバーだし。免許取ったのも親の圧力で渋々。高校卒業したあとヒキニートしてたら、なんもすることないなら免許取れ、あ、はい、つって。養われている身であるという引け目もあって唯々諾々ですわ。意志薄弱すぎてウケる、運転したくないなら意地でも免許取るなよ、免許取ったなら腹くくって運転しろよ、中途半端なんだよ、なにもかもがよ。すいません。実技で黄色信号無視の不注意を教員にクソ怒鳴られたときのことを思い出す。本当に危ないし自分は運転するべき人間ではないと思った。怒声でパニックになりかけて、ここでパニクったらまじであかんと思ってなるべく冷静に運転を続けた。帰ってしばらくしてからてんかんじみた震えと過呼吸が出た。今でもその感覚を思い出す。冷静に抑えられずそれが運転中に出ていたらと思うと肝が冷える。こりごりです。一見して求められたことに一応こたえているように見えるみたいだがひと針で裂けるような恐怖心を抱えながら必死でそう装ってるだけだ。ていうか免許返納しろ。確か学科試験でメンタル面に関するテストがあって正直に答えたはずだがなぜパスしたのか疑問です、ガバか? 多くのドライバーが注意を割くのはあくまで運転中の事故の可能性だが、僕が危険視しているのは自分自身、自分自身が引き起こすあらゆる危険な可能性、そのような危険な自分が行なう運転という行為そのものに対してであるように思う。比喩のもとに戻ってみると、コミュニケーションに対してもそういう態度なんですよね、ははは、「ある人とのある会話」という個別具体的セクションにじゃなく「会話をしている自分自身」の漠然とした危険性にばかり注意が向いてる。なーんじゃこりゃ。

 

母について。母は僕が人生の中でもっとも多く会話を重ねてきた人物だけど、本当に重要なこと以外では、僕はただ母に同調して機嫌を取ることに執心してきており、それは雑談、動物同士の毛づくろいみたいなもので、対話ではないと感じる。わざわざ反感を買うようなことを言ったり不機嫌を誘発させたり嫌な気分にさせるようなことを言わなくてもいい、と判断して、同調する。僕は反感を買われたり不機嫌を誘発させたり嫌な気分にさせるような考え方ばかりしていると思う。僕の考え方は母の価値観を根本から揺るがしたり否定したりする考え方だと思う。僕と母の価値観は異なっていて、母は自分と違う考え方を提示されると「どちらかがどちらかの色に染まらないといけない」と言われているように感じているんじゃないかと思う。異なる考えを述べるとき、自分の考えは譲れないしそうじゃないものは考慮にも値しない、という頑なさを持って反論が返ってくる。ように感じる。僕自身が「どちらかがどちらかの色に染まらないと」と思っているから母の言動に頑なさを見出しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、僕は、譲るとか譲らないとか、染まるとか染まらないとか、陣地争いをしたいわけじゃなくて、異文化交流がしたいんだけど、実際の僕はしたい、と思っているだけで、言動自体は押し付けがましかったり喧嘩腰だったり、過度に否定的になってしまったりするから、防御反応としてあのように構えられてもしょうがねえだろうな、と思う。口も悪いし。僕だって押し付けがましくて喧嘩腰で過度に否定的な態度の意見表明を見たらとっさに構えるし。態度がそうだったとしても、「こちらの軍門に下れ」とかって陣地争いの文脈で思想を強要しているかどうかはまた別なんだけど。少なくとも陣地争いが必要な場面であっても、あくまで僕は考え方を強要してテリトリー増やしたいわけじゃなくて、お互いの共通目的とその妥協点を探りたくて…それもムリなら棲み分けを…。

僕は母の肉体に起きていることよりも母の精神に起きていることのほうに、母に起きているなによりも、母が僕にもたらす精神の働きに、つまり自分にばかり関心があるみたいですね。やんなっちゃうね。

肉体がもたらす苦しみよりも、肉体的苦しみが精神にもたらす苦しみのほうに関心がある。

母の病に関しては、いつものように同調して慰めてねぎらうだけねぎらって、結局なにもしないんじゃないかと思う。つらいね、えらいね、よくやってるね、口ばっかりで手は貸さないんだ。お願いされれば手伝うけど、お願いされなければノータッチだし、お願いされても自分にできない・したくないことはやらない。どう手を貸してほしいのか、どういう手助けができるのかを、なるべく考えないようにしているみたいだ。下手に横槍を入れて「気を悪くさせたら」と、そればかりを恐れてる。どこまで行っても自分自分で他者を視界の外に追いやってる。臆病で薄情。

実際のところ、母はどう思っているんだろう? 想像のたもを冒涜的に手繰ると、虐げられた悲痛な感情が横たわる。なぜこんな目に?あれほど努力しているのに?健康でありたい、健康であるべき、なぜなら健康は望ましいことだから。自然由来食品を選り化学物質や添加物は避けた食事、深層意識に私は実際に健康ですとマントラを唱え、運動も、生活習慣も、睡眠にも、気を配って、気を配って、気を配ったのに?

想像だ。

どうしてそんなに健康でありたいの?どうしていつも死の影に怯えているの?病気は恐い?死ぬのは恐い?死や、病は、間違ったこと、起こるべきでない事柄のように捉えている?不死身になりたい?五体満足でいたい?病人になるのは嫌?それはどうして?

母は自然な肉体的死を、僕は人工の精神的死をおそれてる。

想像です。

死を受け入れる。

お互いの精神的なことについて、お互いの違いついてもっと話せたらいいと夢想している。それは母に限らず誰に対しても多分そう。異文化交流。僕現実的なことについてなにも考えていないね。なにを望みなにを考えるべきなのかももはやわからない。現実に対して望むことなどありはしない。現実とよばれる現象を作っているのはあくまで精神で、精神が現実を生み出しているんじゃないか。だったら僕にとっての現実的な考えはすなわち精神性についての考えなんだ…。こうやって屁理屈ばっかこねてるからいつまで経っても地に足ついた考えがともなわず現実的な問題に打ちのめされがちなのかな。

奉納8

半生を振り返ろうとしていて。

定期的に。

すぐに自分の現在位置を見失う感じがする。

それがいいことだとか悪いことだとか、そういうことが言いたいのじゃなく、見失いがちで、その結果、朦朧と苦しみ続けるのをやって、なにもわからない、わからなさに足を取られてもがくのを、何ループもしているから、その連鎖を断ち切りたいという話。

 

幼少期僕は甘やかされて育ったほうだと思う。両親は不仲だったが両者とも僕を蔑ろにするということはなかった。僕はよく泣きよく笑いよく怒っていたと思う。自分のしたいと思っていること、許せないと思っていることはなんでも正直に表現していたと思う。学校をやめて引きこもったのも自分のしたいことに忠実に従っている結果だった。そしてそうすることができたのは母親が僕の言い分を聞いてくれたからだと思う。父親はとにかく学校には行かせたかったんだと思う。すごく怒っていたような気がするが、そうじゃなかった気もする。母親と父親が別居しはじめた時期は、僕が登校拒否をはじめたころと時期がかぶっていた。僕が登校拒否をはじめたのが先なのか、両親が不仲になり始めたのが先なのか前後がわからない。とにかく両親は不仲になった。最終的に別居を経て離婚に至った原因を、僕は自分の行動が招いたことだと解釈した。そこに因果関係があったのかどうか、それはその時の自分には重要じゃなかった。とにかく悪い出来事には悪者がいるはずだと、悪者が必要だと信じていて、少なくとも両親は悪者ではないと思った。思ったというか、そう思いたくないために、自分を悪者に仕立て上げようとした、という感覚が強い。よくあるやつだ。バカだな。でも、子供ってそんなもんだよな、と今は思う。でも、なんでわざわざ、いもしない被害者や加害者を頭の中に作り上げようとしたんだ?

学校。学校、昔は好きだったと思う。少なくとも今ほど毛嫌いしていない時期はあったはず。いつから嫌いになったのか思い出せない。いつからかすべてがわずらわしく、すべてを遠ざけたくなった。間違いないとわかるのはそれだけで、なぜ遠ざけたかったのかの理由をいつも捕まえられない。今現在もまさにそれを引きずっているからだと思う。今もまだ捕まえられていないのなら、そりゃわかるはずがない。「すべて」の因数を分解しないでおいているから?加害と被害の関係に関することなんだろうか。人と人との関わりをそのくくりでだけ大きく捉えてしまう物の見方に関係しているのかもしれない。

 

物語ることの効能をよく考える。納得したい、と思うとき、納得するための物語を得ようと奮闘する。AだからBになった。つまり、AでなければBではなかった。自分がAであるということを忌み避けようとするときに持ち出されるこの形。Bと因果を結んでいるのがA以外の要因にあったとしても、A以外の要因一切が排されてるのに、納得のための物語性を感じる。

 

僕が自分を精神的に殴るようになったのは、自分が「自分のしたいと思っていること、許せないと思っていることはなんでも正直に表現」してきたからだったし、「甘やかされて育った」からだったし、「よく泣きよく笑いよく怒る」人間だったからだ。

そういう性質を「幼稚」として、「大人の振る舞いじゃない」からという理由で殴っていた。僕は、自分は「大人」でなければならないと思っていた。

そう思うようになったのは、幼稚性を殴って大人として振る舞うことを要求する人の姿を見て、従わなければ殴られると思ったからだと思う。幼稚=殴られる。大人=殴られない。殴られるのは嫌だ。じゃあ幼稚じゃなくなればいい、大人になればいい。それで、他人から殴られまいとするために、結局自分で自分を殴るというかなり意味不明な判断を下した。たぶん今もそれをやっていて、だからそれが苦しいんだと思う。

僕は結局「大人として振る舞う」ことが激烈ヘタクソだということがわかった。まともな社会人像。マナーを守り、礼儀正しく、頭がよくて貢献的で、常識的で博識で、努力家で人情家で謙虚で誠実で、理知的でユーモアがあって器用で多才で品行方正で清廉潔白で、誰も、なにも傷つけ、貶めることのない、何者か。

殴って矯正して身につけたそいつを目指すという姿勢、その演技、それは人を前にする限り永遠に装い続けていなければならず、無理な体勢を取り続けていれば筋を痛めるように、どだい最初から維持などできない、はりぼて細工でしかないわけで、ていうか、はりぼてすら装えてなどいない、ただそうあろうとして、そうであろうとして、そうでない自分を殴り続けてただけ。自分の頭の内側を、嘘で嘘を塗り固めて、その嘘が自分にも、自分以外にもなににも、ばれないように、見損なわれないように、失望させないように、迷惑をかけないように慎重に、いつも緊張して、やがて虚勢が崩れて、なにもかも台無しになる。それが僕が大人として振る舞おうとして得てきた経験から得た感覚。

自分の「幼稚」さを受け入れようと腹をくくってからは、ひどい自縄自縛の感覚にとらわれづらくなった。でも、まだ人の前で人として振る舞おうとするとき、「大人たるべし」の名残が尾を引いて、それに苦しむ。

いいじゃん!その苦しみと引き換えに「あからさまに非常識で反社会的ではない一見まともに見える人物」として、「まともな大人」が得られる権利を買っているんだから!等価交換じゃないですか?

「まともな大人」が得られる権利って?

殴られないこと。

 

僕は、自分で自分を殴って永遠に自分を苦しめ続けるよりも、どうしようもないヴァルネラビリティを撒き散らしてでも、他人に殴られてでも、自分で自分を殴らないでいることのほうを優先しようと思った。

でも、僕は、自分の暴力性を嫌いだ。それは幼稚な自分に「大人としての振る舞い」を望む僕がもっとも重視した抑圧対象だ。幼稚な暴力性。加害者としての自分。加害者として、僕は君とどう接すればいい。

抑圧。それを消し去るための力じゃなく、それと一生を付き合っていくための力がほしかった。ほしかったし、今でもそれを強く求めてる。

でも、僕は暴力的なんだよ。