頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

自分の不平不満にだらだらとらわれていると、自分に不平を感じさせている側、つまり相手側を弁明したくなる声が内部から湧いてきて、自分も正当化して相手も正当化して収集つかんみたいな事態になりがち。

それが望まれているしそれをやるべきなのが正当だし順当なんだろうな

規範とルール遵守して…

サービスを提供だ

ははは

それで自分の気持ちをいつの間にか置いてけぼりにして、なにがしたいのやら

不平たれるだけか?

それがやりたいことなのか?え?

違うんだよなぁ

問題があるならそれを解決したいし、解決できないことならすっぱり諦めて離れるしかないし

とか言って解決もしないうちから諦めて離れるっていうのをやりまくりで、それを逃げ癖って言われるとぐうの音もでないが

解決が容易でないこと

問題の複雑さ

に対応しようとする基本的な姿勢がない感じがあって

こらあかん、手に負えんと思ったらすぐ思考停止する

なあなあにしたりその場しのぎで誤魔化したり我慢したり逃げたり

自分からしてみれば最悪の選択ばっか取ってるんだが、現象の真っ只中にいる間は問題に対しての基本的な姿勢が、緊張と恐怖と不安で構成されていて身動きが取れない

だから僕はまず緊張や恐怖や不安を減らそうと…

そうだ、それを試み続けてるんだった

精神科案件かと思ってそういう機関の利用も試した、でもやっぱりそうじゃねえんだよな、スキルだよ、スキル…

技術がないんですよ、緊張や恐怖や不安に対抗するための体術が、知恵が

でも見方を変えれば恐怖は自分を守っている機能の一つで

耐えられないほどの恐怖があるから、耐えられないと判断ができる、それがわかれば逃げることができる

逃げられれば問題に取り組む複雑さや困難さから物理的に離れられるし、離れることが可能なら危険に身を置かなくても済む

でも離れることができない問題に対してはどうすんのって話で………

もういいって

ぐちゃぐちゃ考えをこねくり回してるだけだ

整理だよ

これも頭の中のスパゲティコードを解きほぐす一環だ

手癖の手慰みだろ

問題問題問題

その問題の話をすればいいじゃないか

それな

 

下手に出る自分は不快だ

気を遣ったり遠慮したり愛想よくしたりする自分が嫌い

でもそれに頼ってきたんじゃないか

そうやって顔色伺うことで生き延びてきたんだ

それはひとつの武器だろう

自分の不足を補い、隠すための道具

補助輪であり、杖であり、眼鏡であり、靴であり、傘であり…

それによって利益を得てる

なぜそれらが必要だったのかもわかってる。愛想で取り繕わなければならないほど本心がむごたらしい様相を呈してるから

攻撃性に満ちていて容易に他者の尊厳を踏みにじる

毀損を避ける形態の一つだ、下手に出るのは

ただ覆い隠してるだけだろ

下手に出るのとは別に本心ははっきりあるのにそれは無視される

それが嫌なんだよな…

下手に出慣れてるから下手に出てる間は本心が覆い隠され続けていて、自分からさえ隠れて見えず、自覚が難しくなる

それが嫌

自分を騙し慣れてるのが嫌だ

せめて本心をはっきりわかった上で下手に出たい、それならまだ納得できる

騙されてるとわかった上で乗っかってるんだったら、これは自分の意志にもとづいて騙されてやってるんだと言える

でも……下手には出るけど、それは態度だけで、言ってる中身まで本心から大きくずれてるってことはないと思うが

どうかな。とかいってやりたくないことをやりたくないのにやってるのはその態度に引っ張られるからだろう。断固とした意思表示を避けるから

それはある

なんかあれだ、葛藤が葛藤のままくすぶってわだかまって葛藤として態度に表れるのがもどかしい

結局どっちなんだよと思う、自分で自分を。どうしたいんだよと

どうしたいんすかね

労働日誌。

久々に受付業務入って疲れた。

でも前よりましだ、多分。いや、ましじゃないのかも。いやましなのかも。わからん。

自分なりに努力しているつもりなんですがそうはいってももちろん先輩方と比較すると少しもお力添えできていないことは自覚しており今後も努力は続けるつもりですがやはりどうしてもこの業務において苦手意識が拭いきれないといいますか心情的にそういう部分があるため成長も遅いかと思いますので目に余ることも多いかと思いますがなんたらかんたら

みたいな弁明を人事の人にして以来、特に明確な説明なく受付のほうに回されなくなって延々別の仕事やってたので、あっもうやんなくていいんだと思って安堵してたのに…。

この「特に説明なく」っていうのも気持ち悪くて、はっきり厳密に意思疎通したいと思うのに質問できない。質問しない。なんでやねん。いまだに会話がぎこちないし、自分から話しかけていってたずねるということをしない。

よくそれで仕事できてるな

業務に直接関係あることなら聞けるんだけど、基本理念とか全体の方針とか共通の目的…みたいな話を聞きたいと思うときなぜか動けなくなる

なんで?

しらん

だいたい努力したくないし嫌いと言った口で努力していますとかのたまってるのが笑える

体裁を取り繕うために嘘ついてるよ、最低だな

体裁くらい取り繕うわ、立場悪くなったら生活資金潰えんねんぞ

ていうか嘘なんすか、努力してないんだ?

やりたくないことをやりたくないと思ってる人がやりたくないことやろうと取り組むそれを努力に勘定していいなら努力してると言っていいと思うんだよな…

じゃあ嘘じゃないね!!!!!!!!!!!

向こうが期待してる能力を満たす基準値とこっちが想定してる基準値が違いすぎる、向こうの期待する努力の量に達してない、だから相手にとっては僕の自称努力は努力したうちに入らない、だから相手を基準にしたときそれは嘘になりえる

そうっすね

そうか?なんで相手を基準にすんの

どちらを基準に定めるかで定義が違い、会話中想定されていたのは相手の基準だったから。

相手を基準にした努力の結果は出たのかというと、入った当初と比べて大きく変化したことはなく、しいて言えば合格基準の定められた業務に合格できてそっちの業務入れるようになったくらい。

いや十分だろ

十分やってるよなぁ

十分ではない

六分くらい

厳しすぎない?

 

突っ立ってにこにこしてる自分。

なにを考えているんだろう。

そのとき考えていることをなぞってみようとするけど、うまくいかない。

笑顔で下手に出て愛想よくして顔色をうかがう筋肉にだけ力が入ってるみたいな感じ。

記憶がない。

いやあるけど。思考がない。なにも考えてない。いやなにかを思ってはいるけど。思ってることがあるのにそれがなんなのかが言葉にできない。

相手を立てる、機嫌を取る、同調する、同意する、感謝、謝罪、それしかやってねえ。

行動全部にそれが染み付いててどうしようもない。

疲れる。

疲れた。

もういいや。

奉納2

中学は丸三年、一度も校舎に通うことなく卒業した扱いになった。すべて自分の関さないところで話がすんでいた。母がオンライン塾システムの教材を使わせてくれたのでそれで自宅学習していた。母が強く干渉して要求したのは勉強のことくらい。あとは小言レベル。時々本当にこの人のことが可哀想になる。若い頃の話を聞いたりアルバムに写った幼い姿を見たりすると切なくなる。昔の母と今の母がつながっていてこの人が自分を産んだんだと思いを馳せると果てしない気持ちになって涙が出る。自分は一人の人の人生に強制介入して情や労力を食いつぶして台無しにしている。

この人に報いなければダメだと思って努力した。情や労力に値するようなまっとうな人間になりたいと思った。でも無理だった。無理をしなければそれは達成できないということが無理だった。無理するのまぢ無理。だいたいから義務感を抜きにすれば、まっとうな人間になんかなりたくなどなかった。いや、ちょっとはなりたかった。なんなら、憧れもした。それどころか、理想にさえした。でも自分はまっとうな人間なんかじゃないんです。ていうか母が僕に「まっとうな人間になってくれ」なんて要請したことはない。すべては僕の思い込み。まっとうでない自分はダメな自分だという思い込み。いつかどこかで少しずつ重なって作り上げられた思い込み。自分にかけた呪い。「ダメじゃなくありたい自分」が「ダメな自分」を虐待し続ける呪い。

母は言った、「人生どうとでもなるし、いくらでもやりようはある」「あなたはやればできる」、ありがとう、でも、僕のやりたいことは、厳罰と正確さで律された集団から一定の距離をとって保身を確保することだったんです。

僕は母を苦しめたくなかった。母は母で、僕が苦しむのを悲しんでいた。僕が苦しいのは、僕が母を苦しめているから。僕が自分で日銭を稼げず母に依存しているから。僕がまっとうじゃないから。この人を苦しめないためにまっとうな人間になろうと思った。でもそれは無理だった。努力ができないからだった。

一定期間は無理がきいて、無理がきいている間は努力は続くが、段々と負債がかさんでくる。そうしているとあるとき突然臨界点を超えてすべてが手につかなくなる。生きることをそのものを放棄して、それまで続けてきたものを根本から辞めるまで無気力が続く。無理をしている間は無理をしていることに無自覚でいる努力をしているので、臨界点を超えるまでなぜそうなったのかわからない。っていうのをこれまで何回もやってきたんだよな。

僕にとって努力とは、無理をすること。無理をすることとは、やりたくないことをやり続けること。やりたくないことをやり続けると気が狂うとわかった。だから努力は嫌いだし、やりたくないこともやり続けたくない。

じゃあやりたいことをやれよ

それがね、ないんすよね。やりたいことがねえんだよな

ないな~やりたいこと

やりたくないことをやらないということをやりたい

はいはい

 

なので気が狂わない範囲でやりたくないことをやり続けられる工夫をしてるんですね。今は。やらないと死ぬんで。

絶え間なく規則正しくってのがきつさの肝っぽくて。フリーターやりながらいろいろ試して、ちょっとずつわかってきた限界値がある。まず週休2日は無理。実働8時間もしんどい。休みは3日あるならギリギリ耐えられる。移動込みで8時間なら大丈夫。これなら規則正しくても臨界点超えずに動ける。これで余裕があるかないかという状態。フルタイムで週に5日働いたらすぐ臨界点超えるのは目に見えてる。だから無理はしない。高望みもしない。動ける範囲でだけ動く。本当に重要で必要なものだけ手に入るなら他は得られなくてもいい。無理をしてでも得たいものがあるなら別だけど、今のところない。いや、あったわ。親からの経済的自立だ。そしてそれはもう手に入った。よかったね。めでたしめでたし。

 

やりたいこと。

傷つけたり傷つけられたりするのが嫌だから避けたいっていう、赤面するくらいありきたりで実現不可能な欲求を捨てること。

避けるのは不可能。人としての構造自体に傷つける機能が組み込まれているから、臓器みたいに。それを避けることはできない。それを取り除くことはできない。

でも、本当にそうなのか?本当にそれは取り除けないのか?

無理だよ。例えばなにされても傷つかない無敵の状態になったとして。その無敵の状態である自分をひがんだり攻撃したくなったりする誰かはいる。攻撃は防衛の手段。守りたいと思う気持ちが攻撃を引き起こす。自分の主義を、信条を、大事ななにかを守りたがる。攻撃したい、守りたいと思ったということは、その誰かのなにかを無敵である自分は傷つけたんだ。その攻撃に無敵状態の自分が傷つかなくても、攻撃行為の目撃自体に傷つく別の誰かはいる、あるいはいうる。その人はなぜ無敵じゃないのか。なぜ攻撃に傷つきを感じるのか。それもまた守りたいと思うから。自分の主義を、信条を、大事ななにかを。誰の心からも、そういうものを守りたいという気持ちがなくなれば、傷つき傷つけられに関する機能は消える。でもそれは防衛の手段を捨てること。主義や信条や大事ななにかを捨てること。捨てられないだろう。仮に自分一人捨てることに成功しても、自分以外の全員が捨てなかったら、そこには傷つけ傷つけられの関係が成立し続ける。

でも、本当にそうか?逆に自分以外の全員なにかを守りたいという気持ちをもう捨てられていて、自分だけがなにかを守りたがってるんじゃないのか?

なにかってあれだな、自己愛だ

もうええわ、いつまでこの話しとんねん

いつもおもうけどなんでこんなに抽象的なんですかね。もっと具体的に考えらんねえのかと思うけど難しいね。具体性の中に、地に足ついたところにこそ自分が傷つけてきたものがあって、そこから逃げるための抽象という感じがする。これもまた逃避よ。ヤマアラシのアレから逃げるための思考。自分にこもってないで現実に生きろよ!他者の中によ。もっと現実の話しようぜ、他人の話をしよう……

やだ!

やだかぁ

奉納1

最近自分ってまじでなんもねえなと思って、しみじみ。

定期的に自分が過去どんな人間だったか思いを馳せるんだけど、毎回頭空っぽだな~と思うし今も頭空っぽや。

10歳の頃とかのデータがHDDに残ってるから、いつでもタイムスリップして過去どんな人間だったか目視できるんだけど。

手打ちでHTML書いて個人サイト作るのにめっちゃはまってた時期があって、デザインの型だけいっぱい作って中身はスカスカみたいなのが山程残ってる。コンテンツは日記と詩と写真っていう。やっぱ変わってないやん。

ネットはまりたてって感じで、見よう見まねで文体を試行錯誤してるのが垣間見えるんだけど。(ぉぃ とかorzとか使っちゃったりして。全体的にテンションだけで乗り切ってて中身がない。まあ中身のなさをテンションで誤魔化すやつ、今でも普通にやってるし、オフラインで。真似てるのは文体だけじゃなくて、作法だったりものの考え方だったりとかもそうで、なんか改めて思ったけど僕ってインターネットで育ってきた人間なんすよね。小中学校は行ってないわ10年近く引きこもって家族以外とまともにコミュニケーション取ってないわ。僕にとって社会といえばインターネッツなんすよね。

オンラインで僕は、もちろんいろいろわきまえた人たちの中に無知なクソガキが特攻してる状態だということにすぐ気がついて、即意気消沈した。そりゃそうなる。で、じわじわ状況を把握するにつれ、あっ自分って根本的に浮いてるなと気づいた。どう浮いてるか。底が浅い!無なんですよね人間としてのいろいろが、高濃度高深度な人々と比べて。これは別に今でも思ってることだけど、まあそれが自分じゃんって思えるからいいんよ今は。ひどかったのは当時で、意気消沈、すぐ回復すればよかったけどね、それから10年以上自分の幼稚さに自己嫌悪し続けることになる。で最初は小さい種だった自己嫌悪が腫れて化膿して最悪の状態になった。すごいすごい、思い出してきた。

中身がないってのはそりゃ自然のなりゆきで、物事から受け取る情報の解像度が超粗いの。ものの見方が雑なの。あらゆるカテゴライズされたものをカテゴリー通りに受け取り続ける感じ。まあそういう状態のことを指して子供と呼ぶのか。でも楽しかったからな、なんも不満なくて、いやあったかもしれんけど忘れたし、あっても忘れる程度の不満だったし、嬉しいことがあったら嬉しいと言い、悲しければ悲しいと言い、ムカついたら怒って、美しいものには見惚れる。そういうすべてに制約がなかった。でもすぐに制約は作り出された。白紙状態の人間にいきなりいろいろ求めすぎだろと今は思うけど、当時はいろいろわきまえた人たちと無邪気な自分を対比しては、自己懲罰を繰り返した。なぜ無邪気でいられるんだと自分を叱った。無邪気でいてはいけない。無邪気は無知で、無知は悪だと思った。無知が人を傷つけるから。"人を傷つけることは悪いこと"だから。今はこれ、違うと思うよ。傷つけてしまうのが悪いんじゃなくて、傷つけてしまったあとの対処をおざなりにするのが問題なんじゃないの。究極、人はわかり合えないよ。でも、わかり合えないことそのものは悪でもなんでもない。人はわかり合えない、それを前提にしないからいろいろこじれるんじゃねえの、とすら思う。わかり合えないなら、わかり合うための方法を考えられる。でもわかり合えるのが自然だと思っていたら、わからないおまえは悪だ、間違ってる!ってなって、自分の正義の押し付け合いになるし、対立するし、戦争に発展する。やってらんねえ。

自己懲罰。なんかそういうね、個人-集団間のすり合わせに特化した精神構造は生まれるのが自然だと思うよ、だって社会的動物だし。でも懲罰のバリエーションとして、匿名掲示板の誹謗中傷を内在化したのが最悪だったな。自分の一挙手一投足にすばらしい罵倒の数々が飛んでくるんだけど、自分のどこがダメとか矯正の余地があるとか。全力で存在自体、自分を構成するあらゆる要素を逐一貶め、辱め、踏みにじり、捨て置く、そういうやり方で常時、全神経切り刻むような監視の目を自分に向けてた。自分の一挙手一投足が気になり自分のすべてが間違っているという感覚に取り憑かれた。完全に病気だな。いや自覚してたけど。

思い出した思い出した、その頃くらいからまじで人間全般に恐怖と不信を抱くようになって人の目に怯えだしたんだ。一般的に言って学校制度をボイコットする人間は非人間とみなされ、見つかるやいなや輪に加われ従え我慢しろの網に絡め取られ、自分は捕まり打擲され処刑される。そういうたぐいの恐怖。例の不登校ユーチューバーに対するコメント見てて、久々にその感覚思い出した。そして、ほらやっぱりな、と思った。実際は、当たり前だけど、全員が全員そういう思想なわけじゃない。当時の時点でフリースペースとかの施設も存在していて受け入れ先もあったんだし。続かなくて結局行かなかったけど。だから、人間全般、とか言って個人性を無視して一括りにして怯えるのもそれ自体がすごく雑で…。まあ人間をカテゴリーで見る方法じゃそう考えるようになるかって感じだし…。ていうか今でもその見方を引き継いでて、それに継ぎ足す形でアップデートしてるだけだけど…。嫌気がさすけど、だから、根本的に雑なんすよ、僕という人間は。

えっと、それで結局病気度MAXになっていよいよ自分の殻にこもり続けてた時期に高校行きだしたんだけど、通信制定時制のハイブリッドみたいなところで。そこでだいぶ病気が落ち着いた。

気づいたら半生振り返りだしてる。

もっとインターネッツについてほりさげようと思ってたのに。

まあいいや。

ついでに高校以降の記憶も記録として残したいけど眠いので今日は寝る。