頭の隙間のダイアログ

日記。筆記開示。オートマティズムの精神。自己対話。

詩について。

詩ってなんだろうな。いまだによくわかってない。

詩に心を打たれた経験がない。

特別これという詩に取り憑かれたり惹かれた経験もない。

それどころか、一つの作品として完成された形態をとっている詩に対して、大抵は心理的に距離を感じる。

でも、僕は漠然と詩という概念を好んでいる。

詩じゃなく、形状はどうであってもよくて、単に詩情みたいなものを好んでいるのかもしれない。

生活とか、日常は常に連続していて、一瞬の一瞬さを意識し続けることが難しい。

僕は一瞬の一瞬さを意識することを詩情だと思っていて、それを持ちうる人やその人の見る一瞬さそのものを好んでいるんだろう。

でも、表現される媒体が作品の形をとると、警戒する。作品は評価されるためのものだから。

表現としての技工に優れた詩であるとか、こんな感性や視点があるのかと目新しい驚きをもたらす詩だとか。技術に優劣を見出したり、驚きの有無で退屈か刺激的かの評価をくだす。そこには競争がある。

詩情に競争はない。優劣も。ただ一瞬がある。そこに評価を差し挟む余地はない。一瞬はただの一瞬だから。

生活も日常も複雑で疲れる。複雑さと向き合うための体力、複雑さに対する耐久性はいつも過熱していて今すぐ破裂しそうだと思う。

一瞬の一瞬さを意識するのは、振り切れた複雑さへの諦めに似た姿勢に感じる。

理解の実感、発見の衝撃、めしいた目が開く瞬間。こわばり緊張した肩の力が抜ける。大きな力の前に自分の無力さを差し出す以外なくなる。呆然とした喜びをともなう、煩悶の末の虚脱。云々……。

僕は、無力な存在としての意識の発露に好意を持つんだろう。力がないという感覚を出発点にして、あるいは内から燃えるような熱を発したり、汚くて冷たくて暗いところの底に落ちていったり、ただ大きな力の前に立ち尽くしたり、淡々と見届けたり。そういうのを読むのが好きなのかもしれない。

パレード

よく晴れた朝で5月の太陽が青い空に差していた。民家の柵の上にカラスが一羽とまっていてそれは踏切の信号待ちの間だった。民家と線路は隣り合っていて信号の赤い点滅と規則的な警戒音と、口を開いたまま不自然に辺りを見回すカラスだった。黒く艶のあるくちばしだった。胸の毛の一本一本の毛羽立ちがくっきりとわかる距離だった。カラスは落ち着かなげにひどく入念に鳴いて、電車は通過した。
同じ日の同じ朝、猫が通りを真横に走り去っていった。
時刻は午後6時44分になりまして、僕は青い街と高いビルと風俗の看板と路地裏の小声を映して移動するカメラだ。人々は宙に舞う靴とおしゃべりの残滓になってパレードの行進を続けた。それは葬列だったかもしれない。僕も参列した。目的の場所を目指してたどり着くまでに三件の施設を経由した。また列だ。長い列に並んだ。泥の血液みたいに橙色をした酒を飲んだ。腹やら背やらにどかどかと大砲が貫通していく。骨を砕く振動や波紋に触った。
僕は充電が一桁になった携帯電話をポケットの中に入れていた。6Pチーズ型の螺旋階段。ポケットの裏で通知を知らせるLEDライトの点灯が闇の中で蛍みたいだった。

もうおわれ

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携帯カメラでモニターを映すとRGBを描画して点滅する光の波をキャッチできる

絶え間なく書き換わっていく信号が見える

 

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雲が輪郭を光でふちどられているところが美しい

暗い雲と明るい雲が重なっているところが美しい

光でとろけたような淡い色が美しい

 

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他者の幸福を願うと自分の幸福度もあがるという研究結果

 

僕はいつでもあなたがたの幸せを祈っている

自分の幸福度をあげたいからという理由で

自分の周囲がクッソギスギスしてたら不快だからという理由で

でも、自分が他者の感情の発露や在り方、それを不快に思うそれ自体が、ギスりのスパイラルをまた生んでる

じゃあなにも考えない、なにも感じないのが最適解かというと、そうじゃないと思うし

人間には欲望があって、それを消し切るより、どう付き合うかを考えるほうが僕には重要で

なぜなら100%完全に消し切るには究極死ぬしかなくて、生きてる間は生きてるから

あるものをないとするんじゃなく、あるものとして受け入れないとなんもはじまらんと思うし

 

他者の幸福と自分の幸福の尺度も違う

他者の規定する幸福の範疇に僕の不幸が組み込まれていた場合、僕が不幸にならなければその人は幸せになれないのか

みたいな

その逆もあるし

結局思考停止しちゃって、どうしたらいいかわからない、だからただ祈るしかない

とかみたいな姿勢になっちゃう

なにが幸せな状態かはひとりひとり違っていて、一様にこうすれば正解的な

型にはめるような幸福の在り方を押し付けるのも嫌だし

それは自分が押し付けられるのが嫌だからって理由からだけど

とにかくただぼんやりとたのしいねーっていうあれを期待するけど

たのしくないねってなったときに

それが人の幸福を踏みにじるやり方じゃない方法でほぐされるといいがと思う

思うけどね

 

なにが他者にとっての幸福か型通りに規定できないように

なにが幸福を踏みにじることになるのかも規定できないから

そこは情報の蓄積でしかない

人間の数だけ情報量があって……

一対一ならまだしも、集団になってくるとひとりひとりに合わせるのはほとんど不可能だし

できてもめちゃ疲れる

合わせるのだって相手にとっての完璧な存在として振る舞うことが、すなわち相手にとっての幸福じゃないんだし

疲れて無理してる時点で自分が幸福じゃなくなってるから関係が破綻してる

そもそも力量的に合わせるの無理っていうのもあるし

 

そこだよ

自分の力量を知ってできる範囲でやるしかないんだけど

力量をはかるのは難しい

できないことに挑戦しないと、それができるのかどうかそもそもわからない

できるようになりたいとかならまだしも、したくもないことを、いつかできるようになるって保証もない状態で続けるより

今できる範囲のことを伸ばし続けるほうが、とも思う

僕は僕に関係のある範囲のすべての存在が、僕がそこにいることで不快にならないでいてほしいとか、幸福であってほしいと思うけど、それはできるようになりたいけどできないことの範疇で

でもある程度まではクリアできる基準みたいなのがあるんだったら、それを達成したいとは思う

ただその基準を満たすために自分の幸福度が下がるなら

他者の持つ幸福の基準を変える方向じゃなく、自分の幸福度の基準を下げるよう熱心になるとか、自分が離れるのが最適解というのが今の時点の思考回路っぽい

幸福度の基準を下げるっていうのはすっぱいぶどう作戦で、離れようとするのは引きこもり作戦

なんも根本的に解決しない戦法やなと思う

逃げるばっかで芸がねえし先がない

先はないよそりゃ

それはわかってたことだし、わかってることだ

じゃ、なにかが根本的に解決する戦法って何

誰の幸福も犠牲にしない選択肢の考案

それこそ実現不可能に思える

逃げたくはないよ

でも自分や誰かのなにかを損なうのは恐い

なにかって何

大切なもの

大切なものを尊重しきれる力量を持っていない、だから自分の幸福を求めて他者と接触を試みて損なうくらいなら、黙ってたほうがましだと思う

またこの論法か……

黙ってたいなら黙ってりゃいいじゃんと思うけど、黙ってたくないという自分を圧し殺してる以上

息止めてたいなら息止めてりゃいいじゃんと同義なんだよな

だから自分と一対一になったときはじめて息抜きができるわけで、文字通り

それでいいでしょ、もう、とも思う

一方、いやそうじゃねえだろ、とも思う

圧し殺す以外の戦法がほしいんだよ

 

 

僕は自分の存在が、誰かの幸福に寄与していればいいと思うけど

誰かの幸福に寄与するものだとは心底からは思えず

なんかある一瞬だけいっけんよく思われることは可能かもしれないけど

永続的には無理っすよっていう

それはもちろん他者に対しても同じように思う

一瞬交差的にその存在そのものを、認知するだけで満ちるような瞬間はある

そういう一瞬の幸福で十分なところ

長きにわたる幸福を望むから混乱するんだろうと思う

しらんけど

ていうか生きてるだけでなにかを犯したり害したりして成立してるわけだからそもそも

肉体を維持するのにどれだけの糧がもちいられ、その糧がどれだけのエネルギーのもとに成り立っているのか

今みたいな構造形態にいたるまでにどれだけの思索が堆積されて共有されてきたのかとか

僕はそのエネルギーにあたうほどの存在であるとは自分を認められなく

だから価値ある存在にならねばとかいう強迫観念に苦しめられたし

でもその強迫観念が自分を苦しめてるんだったら、それは幸福から遠のいてるし

価値を求めることで幸福でない存在になるなら、じゃあその価値ってなんだよつって

わかんないですけど

 

それにしても改めて言葉にして思うけど

ゴールの設定が絶対的で永続的な幸福の寄与とか

それは人間の到達できる地点じゃねえだろと思う

神にでもなりたいんすかつって

そういう考え方を嘲笑したり、中傷できるいろんな言葉を知ってるけど

したくないのでしないです

真剣なんだ

でも無理だよ

地に足ついてなさすぎる

地に足つけるところからはじめろと思う

フィールドワーク

どうすれば地に足つくのか考えるけど

考える時点で足離れてるから

現実に即したあれこれにいちいち拒絶反応起こしすぎなんだよな

現実拒絶反応に対する逃避としての思考なんで……

どうしたいのかとか、どうすればいいのかとか、なんとか

現実に即したあれこれにいちいち起こしてる拒絶反応に対して逃げずに自覚的になるっていうところから

逃げる以外の戦法を体得しようとしてるんだけど

そんな弱い部分をかばいながら動いてる感じじゃ動きづらいままだろってのは思うし

弱い部分かばいたくなくなりたいという発想からの暴露療法的なナラティブセラピー的なこれでもあるっていう